11


 身体を重ねてからだいぶクリスは夜の営みに慣れてきたらしいが、未だ未知の領域なのか戸惑ってばかりだった。最初の愛撫の時点から、身体に与えられる痺れるような感覚にどうして良いか分からなくなって、後から訊くと最中のことをあまり覚えていないそうだ。それを聞かされたときロランは少しがっかりしてしまったが、腕の中にいる彼女が必死に自分の行動に応えようとしているのは本当に可愛らしく、実のところ冷静さに定評のあるロランもこの時ばかりは夢中になってしまい、クリスを責めることはできなかった。
 行為の後、肢体を横たえ、荒い息をする彼女を後ろからゆるく抱き、腕を回してその汗ばんだ額を撫でてやる。

「ロランは、ずるいよ……」

 整える呼吸の合間にそんな言葉が聞こえ、ロランはクリスの髪に唇を付けたまま問うた。

「私がですか?」
「そうだ……だっていつも色んなこと……」

 羞恥を覚えたのか、その後はボソボソとしていて聞き取れなかった。クリスの言わんとしていることを理解したロランは、小さく笑むと彼女の胸のふくらみに片手を這わせる。

「こういうこと、などですか」
「うう……」

 もうやめてと言いたげに身を縮め、いたずらする男の手を抑えてクリスは呻いた。だがもう力が出ないらしく、胸元を妖しく愛撫する手を許すしかなくなる。色白であるはずの耳は真っ赤になっていて、既にいっぱいいっぱいのようだ。

「どうしてロランは、こんなことを知っているんだ」
「はい?」
「私の気持ち……気持ちいいところとか、どうして」

 彼女からすれば何気ない質問なのだろうが、男としては答えにくい。困ってしまい、ロランは少し考えた後、華奢な身体を後ろから抱きしめた。

「私も必死です」
「ひ、必死?」
「ええ。クリス様はどうしたら気持ちよくなってくださるのだろうか、どこにどうされるのがお好きなのだろうかといつも考えています」
「そうなの?」

 くるんと身体の向きを変え、丸い目で不思議そうに問うてくる。未だ紅潮していて汗がにじんでいるその顔は色っぽく、ロランが最も好きなクリスの表情だった。そのうえ少女のように無邪気な瞳は反則だ。
 呆れがじっているような愛しさを覚え、そうですよと頷きながら彼女の額に口付けをする。

「日々勉強しています」
「……私もロランの気持ちいいところを知りたいな」

 もそもそと言い、胸に顔を寄せてくる。ロランは銀髪をゆっくりと撫でつけ、少しずつで良いのですからと彼女に無難な答えを返した。
 クリスに気持ちよくしてもらうなどとんでもない。恥ずかしさのあまりどうしようもなくなってしまうのは自分の方だ。そんなことをされた日には顔など一切会わせられないだろう。

「ロランはずるいぞ」

 懐で不満げな声が聞こえる。あまりこの話が長引いても良くない。なだめるために彼女のほっそりしたうなじに手を滑らせると、甘い声を漏らしてきゅっと抱きついてくるのに満足し、ロランはゆるゆると瞼を閉じた。



12


「ロランってときめいたりするのか?」

 まるで「今日食べた昼ご飯はなあに?」とでもいった軽い口調で放たれた質問だったが、ロランは度肝を抜かれた。隣を見下ろすと、ぐっと顔を上げてまあるい目で見上げてくる銀髪の乙女の姿。その紫色の瞳は年不相応に無垢にきらめいていて、時おりロランは少女と恋愛関係になっているのではなかろうかと言いしれぬ不安を覚えることがある。そういった趣味はないはずなのだが。
 彼女の言葉を頭の中で反芻し、ロランはそのまま問い返した。

「私がときめいたりするか、ですか?」
「そう……ドキドキしたりする?」

 くりんと首を傾けて訊かれる。普段の威厳満ちたる騎士団長とは全くかけ離れている小鳥のような仕草に、ロランは目眩を覚えて思わず両目を片手で覆った。するとすかさず、どうした!?と慌てたクリスの声が聞こえてくる。

「大丈夫か? 具合でも」
「いえ……」

 なんだか色々と反則だろうと思いつつ、ロランは力無くかぶりを振り、かすかな溜息をついた。

「……ときめきますよ」
「え?」
「そう見えないかもしれませんが」

 手を退けて再び恋人を見ると、本当かなあという疑わしげな半眼が視界に飛び込んできた。「これはもしや演技なのではなかろうか」と疑心暗鬼になりつつ、クリスの頭を半ばやけくそで撫でつけてやる。
 てっきり不満顔をされるかと思ったが、猫のごとく気持ちよさそうに目を瞑り、ほんのりと頬を赤く染めるクリスを眺める己の心臓がきゅうと痺れる。果たしてこれをときめきと言わずになんと言うのか。
 「ロランに撫でられるとドキドキするなあ」と嬉しそうに微笑むクリスに、ロランは呆れと落胆を覚え、理性の枷を外してしまいそうな愛らしい顔がこれ以上見えないようにと彼女の身体を懐に抱きしめた。



13


 あるときクリスはラブレターをもらった。
 日々かたい公文書ばかりに目を通しているクリスには、もはや小説に出てくるようなロマンチックな文章表現は無縁だった。どこかの名門貴族の男性から手紙が届いたとしても、その回りくどい詩的な文体はクリスの苦手分野以外の何者でもなく、差出人には大変申し訳ないがサロメに文章解釈をしてもらう有様である。そのたび軍師は溜息をつきながら手紙の甘ったるい中身を音声化してくれるのだが、途中で聞き飽きるため要約を求めることにしていた。
 手紙の内容は大抵「結婚してくれ」というものだった。唯一無二の美しい容姿のみならず、クリスの持つ莫大な財産はゼクセンに住む者ならば誰もが欲するものだ。あいにく麗しき高貴な乙女は弓使いとの恋愛を楽しんでいる最中なので、他の男は眼中に無かった。とはいっても、せっかくもらった手紙を焼き捨てるのは差出人らに気の毒なので、適当に机の引き出しなどに保管しているのだが、いつの間に無くなっている。おそらくお前だろうとサロメに問うと、「私が管理させて頂きます」の一言。よく分からないが、処分に困っていたのは事実なので、クリスは残酷にもそれがありがたいと思っていた。

 だが、あるとき失敗した。軍師の力が及ばなかったのだ。
 引き出しに入れたと思っていたラブレターが、机の上に無造作に置かれていた。
 それをロランが目撃してしまったのだ。
 しかも封蝋側が上に向いていたため、送り主の名前が見えていた。無論、男性の名である。

 部屋に来た際、彼が不自然なまでに卓上を眺めていたことで気が付いた。
 クリスはサッと青ざめ、手紙を取り上げて「これはなんでもないんだ」と適当な引き出しに入れてバンと閉じた。
 その後、重たい沈黙が訪れ、「私は馬鹿だろう」と胸中で呟く。これでは逆に怪しまれるではないか。
 前に佇み、微動だにしないロランの靴を眺め、泣きそうになりながら相手の動作を待った。

 しばらくして応答があった。

「クリス様」

 淡々とした呼びかけにびくりと肩を震わせる。恐怖で顔を上げることはできなかった。

「クリス様。
 手紙はきちんとお読みください」

 そんな言葉が聞こえ、え、とクリスはおそるおそるロランを見た。彼は普段通りの無表情で、手紙の仕舞われた引き出しを眺めている。

「それはあなたを想い、書かれたものです」
「……で、でも」
「人の想いを無視してはいけません」

 きっぱりと、己の信念のように彼は言った。同じ男として気持ちが分かるからなのかもしれない。あるいは、彼が他人と接するときに心がけていることなのか。
 依然不安な気持ちを抱いてロランの顔を見つめていると、彼はクリスに視線を移し、少し困ったように微笑した。

「気持ちに応えられてしまっては……困りますが」

 その気恥ずかしそうな口調に、クリスの胸は急にどきどきと鼓動した。今まで数多くの手紙を読んできたが、これほどまでにときめくことが果たしてあっただろうか。
 頬が熱くなる感じを覚えながら、うつむき、ロランの片手の袖をくいくいと引っ張る。

「……お前の言葉に勝るものなんてないさ」
「はい?」

 ぼそぼそと言われたクリスの言葉を聞き取れなかったのだろう、弓使いが不思議そうに聞き返してきたが、クリスは「なんでもないよ」とかぶりを振るだけにした。



14


 ロランは馬車が好きではなかった。
 ゼクセン連邦で主流な移動手段は馬車である。世話に金がかかる馬を所持するのはよほど資産がある人間のみで、街と街を行き来するために民が使用するのは公共もしくは民営の馬車がほとんどだった。
 エルフの世界に馬車は無いため、ロランは森の外に出て初めて乗ったのだが、車内がまた狭いのだ。種族の中でも長身の部類に入るロランにはまるでミニチュアで、乗る時に頭をぶつけるわ席は狭いわ、相乗りの場合は長い脚のせいで相手方に嫌な顔をされるわで散々な思いをする。また、これは人間の文化なので、エルフに差別意識を持つ馭者に鉢合わせると不運としか言いようがない。乗せないか法外な乗車賃を取ろうとするか、あるいは乗せても運転を荒くしたりで、気持ちいいことなど一つも無いのだ。
 騎士になり、馬をあてがわれた今、あのような箱には乗るまいと思っていた。だが万が一のときには仕方がない、馬車に乗らざるを得ない時もあるだろう――たとえばひどい雨の日に移動しなければならないとか、馬の調子が悪いとか、そういったときに。
 しかしある日、部屋で共に休憩を取っていたクリスからこんなことを言われ、ますます馬車に対する警戒心が芽生えてしまった。

「あのな、この前サロメと馬車に乗ったときに、サロメに訊いたんだ。もし私がサロメのことを好きになっていたらどうなっていたかなあって」

 そういったことは逐一報告しなくて良い――ロランの胸中の第一声はそれだった。馬車は密会の絶好の機会である。彼女は自分の取った行動が意味しているところを分かっていないのだ。
 だが、責めてばかりではいられない。クリスに何ら悪気はないというのは六騎士にとって自明の理である。思春期から訓練と戦闘と政治ばかりに携わっていた彼女には、恋愛を経験するタイミングが無く、色恋沙汰に恐ろしいほど免疫がないのは致し方ないことなのだ。それに、今のクリスの質問に対して軍師がどういった反応をしたのか気になるところもあった。
 あまり気は進まなかったが、爛々とした目で見上げてくるクリスに、その先はどうなりましたかという問いかけを視線のみで返す。クリスはロランの意図をくみ、先を続けた。

「サロメ曰く、今までと変わらないでしょうということだった。私もそうだろうなと思っていたから、別に驚きはしなかったがな」

 まあ、サロメに対して恋愛感情はないのだが、とクリスは呟き、なぜかロランの片腕に身を寄せた。抱きしめて欲しいのだろうかと一瞬考えたが、腕にくっついたまま黙ってしまったので、彼女のつむじを見下ろしてロランもまた沈黙した。
 馬車に乗るのは好きではない。むしろ嫌いだ。だが、クリスと二人きりになることが難しい城での生活、そういえば密会のチャンスは馬が牽く箱の中にあったではないかと、己の考えの及ばなさにロランは落胆した。だからと言って、彼女との時間を得るために馬車にあえて乗るというのも気が進まない、しかし、このまま彼女が何の疑いもせず別の男との馬車の密会の時間を持とうとするならば、あの箱の中がいかに危険かを教えなければならないのではないか――
 ぐるぐる思考を巡らせていると、不意にクリスが腰に手を回して軽く抱きついてきた。一体何だろうと見下ろす。
 彼女は頬を赤らめながらもそもそと顔を上げ、とても小さな声で言った。

「馬車の中というのは危険だってサロメに咎められたんだ……そう簡単に男の人と一緒に乗ってはいけませんと。まあ、サロメは別だけど」

 最後の一言が問題なのだが。あえて口にはしない。

「なるほどなと思ったよ。だって……ロランと二人きりであんなところにいたら、私、ロランに甘えたくて仕方が無くなってしまうもの」

 羞恥を覚えたのか、懐に顔を埋めてしまう。耳の先まで真っ赤になり、意地からかロランに回している腕に力を込めた。

 ああ。
 この可愛い生き物を一体どうしたら良いのか。
 あまりの衝撃に目眩を覚える。
 こんなことでは、二人で狭い馬車に乗った時にどうなるか分からないのは俺の方だ。

 今すぐ掻き抱いて唇をむさぼり、ソファかベッドの上に閉じこめてしまいたくなったが、そこはかろうじて残っていた理性で留めた。溜息をつき、彼女の頭を撫でつけるだけにし、ここまででどうか勘弁して欲しいと訴える。

 これは、しばらく葛藤すべき事項となるだろう。あの、狭く、居心地が悪く、エルフに不親切な箱の乗り物が嫌いなどと言っている場合ではないかもしれないのだ。



15


「あの、クリス様。一つ質問があるのですが」

 議会の帰り、ブラス城の廊下を二人で歩いていたとき、寡黙なロランが急にそんなことを言い出したものだから、クリスは驚いて隣を見上げた。クリスや周囲の人間に投げかけられた質問には答えても、ロランが自分から「質問があります」と挙手することは皆無に近かったからだ。
 驚愕の中に、どこか嬉しさが生まれくるのを感じつつ、一体質問とはどのようなことだろうとクリスは好奇心を抱きつつ頷いた。

「ああ。なんだ?」

 するとロランは、大したことではないのですが、と考え込むように前置いて、

「“あなたは天然だ”とパーシヴァル殿から数回に渡って言われたことがあるのですが、それは一体どのような意味なのでしょうか」

 問うた。
 クリスの心に湧いたものは、面倒くさいという感情だった――あまりこの男に対してそういった気持ちが生まれることはなかったのだが。むしろ今回が初めてである。
 クリス自身も周りから「天然が入っている」と言われるタイプの人間だ。しかし、ある程度“天然”の意味が分かっているところがあるため、完璧な天然ではないのだろうと思っている。サロメたちから突っ込まれる回数が多いので自然と学習したのかもしれない。
 しかし、隣に歩く男は真性の天然だ。
 天然と呼ばれるクリスにもそう感じられるほどなのだから、相当だ。
 返答に困ってしまい、うんうんと唸り、クリスはとりあえずロラン向けの正解を口にした。

「その……天然というのは、天然ボケとか、天然記念物とかいうことを表しているらしい……」
「天然ボケ? 記念物?」

 無表情で聞き返される。これはかなり手強そうだ。クリスはどもり、こう、なんだ……その……と視線を右往左往させながら言葉を探していたが、上手い回答が思い浮かんでくれない。そもそも自覚がない人間に天然の意味を諭すこと自体が難しい。
 しばらく考え込んでいると、助け船を出そうと思ったのか(実際は本人がクリスを困らせているのだが)、ロランが口を開いた。

「天然記念物と言われても、私は珍しい存在でもなんでもありません。そしてボケとはどういったことを指すのですか」

 真面目もここまで行くと迷惑にしかならないな。
 クリスは胸中で断言した。
 答える気力が一瞬で失せてしまい、半眼で天然男を一瞥し、溜息をつく。

「ロラン。すまないが難しいのだ。天然と呼ばれる者には、天然という意味がそもそも理解できないといわれている」
「そう……なのですか? それほどまでに難解なものなのですか?」
「ああ。だからこそお前は貴重な存在なのだよ。そのままでいるべきだ」

 だが、言われた当人は腑に落ちないらしく、眉間に皺を寄せてクリスを見つめた。下手すると怒るか、機嫌を損ねるかの流れだ。
 この話題を引きずられても困ってしまう。クリスは周りに誰もいないことを確認すると、ロランの片手を手袋越しにそっと握った。

「私は、今のままのお前が好き」

 言ってやると、ロランは戸惑ったのか首を傾け、「そうでしょうか?」と困惑気味に訊いてくる。
 クリスは返事の代わりに、にこりと微笑んだ――今までこの男の前で一度もしたことがなかったが、これは偽り、演技の笑みである。
 だが、男には女のそれが見抜けなかったらしい。一言、分かりましたと一体どういう思考回路で納得したのか理解しがたいが、こくりと素直に頷いた。

 やはり、この男は紛れもない天然のようだ。



16


「ねえ、ロラン。
 お願いがあるんだけど」

 背後から控えめに言われ、ロランは少しの驚きをもって振り返った。クリスの自室で寝酒を飲み、帰ろうと席を立ってドアの方へ向かっていたまさにその時だったからだ。
 見下ろす先のクリスは頬を赤くし、小さく首を傾けて長身の男をじいと見上げていた。これがまた反則なほど無垢な瞳である。
 前回の二人きりの寝酒の際に夜の営みがあり、今回は控えていたため、もしかして今日もその気になってしまったのだろうかとロランは戸惑いを覚えつつ返答した。

「はい、なんでしょうか」

 するとクリスはロランにそそと身を寄せ、

「あの……抱っこして欲しいんだ……」

 より顔を紅潮させ、そんなことを言った。急な頼みだったため意味がよく分からず、「抱っこ?」とおうむ返しに問うと、クリスは子どものようにこくんと頷いた。
 困惑したが、上司、ましてや団長の依頼とあらば断れぬ。従順な弓使いは「了解しました」と一言置いてから寝間着姿のクリスをひょいと待ち上げた。
 ロランは細身ではあるが力には自信があった。毎年定期的に行われる体力測定では全ての項目で優良を叩き出す実力である。クリスは軽々持ち上げられたことにびっくりしたのか、頭の位置が下になったロランを丸い目で見下ろした。

「すごいな、ロラン。私もそこそこ体重があるぞ。重くないのか」
「重くなどありません。それより、どうしてこのようなことを? 手の届かないものでもありましたか」
「いや、意味はないんだが」

 クリスは感心したように周囲を見回し、

「ロランの視点が気になってな。お前の目の位置から世界を見てみたかったのだ。
 そうか……こんなにも全てが低く感じられるのか。エルフにとって人間界などミニチュアであろう」

 どこか興奮した様子で言っている。ロランはクリスの顔を間近で見ながら、この方は本当に白くお美しい肌でいらっしゃると関係ないことを考えていた。
 しばらくして降ろせという命令が出たため、床に戻してやる。クリスは小さく頭を下げて礼を述べた。

「ありがとう。楽しかったよ」
「そうですか。よかったです」
「あれだけ高いんだ、お前にとって私の目の位置は低いだろうな。これでも女性の中では背が高い方なのだが」

 苦笑して言われたので、ロランは試しに腰を屈めてクリスの両目の位置まで自分の頭を持ってきた。突然のことに驚いたらしく、彼女の両目がじいと見つめてくる。その時もまた、この人の菫色の瞳は本当に綺麗だと身長云々とは無関係なことを考えていた。
 中途半端な膝の曲げ方なので長くはそうしていられず、すぐに腰を元に戻す。すると急にクリスが両手で顔を覆って「反則だ!」と喚いた。一体何のことかと事情を尋ねたが、彼女は耳まで真っ赤になって答えを教えてくれなかった。



17


 風呂上がり、クローゼットの背の丈ほどある鏡の前に立ち、肩越しに振り返るようにして背中を映す。
 人から色白だと賞賛される己の肌の上に、いくつもの桃色の斑点があるのに気が付き、クリスはそれに見入った。始めは湿疹でもできているのかと驚いたのだが、そういえば、と思い出したのだ。
 跡が残ります、と。
 唇で肌を強く吸うと、その証拠が残ります、と。
 ロランはクリスに端的に教えた。
 昨日の睦み合いの中で、彼は幾度もクリスの背中に唇を這わせ、ところどころ吸い上げた。本当は首にしたいようだが目立つので、背中にしてくれているようらしい。
 別段気持ちいいわけではない行為だが、男に愛されているということと女に所有の証を残したいという男の願望を感じられ、最中クリスは恥ずかしさと喜びでいっぱいになってしまう。

 背中に残された男の欲望を見つめ、クリスはどこか恍惚とした気持ちを抱く。
 きれいだと思った。
 男の愛の仄かな色が残る自分の背中が、きれいだと。

「愛されているんだな、お前は」

 鏡の向こうの女がそう言う。
 クリスはしばらく自身の姿を眺め、そのうち用意していた室内着の黒いワンピースを身に纏った。
 今日の寝酒にはサロメも来る。万が一軍師にこれを見られてはまずいだろう。
 隠すために、絹でできた銀のショールを肩に羽織る。

 試しに知らないふりをして、背中に斑点があるのだけれど、これは一体なんだろう?と軍師の前でとぼけてみせたら、弓使いはどんな顔をするのだろうか?



18


「あ、そういえばな、ロラン。今日、パーシヴァルからイチゴをもらったんだ」

 寝酒のワインをグラスに注いでいたクリスが、不意にそんなことを言った。六騎士の中では最も浮いた話の多い男の名に警戒心が芽生えたが、イチゴという単語から彼の親友である農夫の姿が思い出され、そういえばパーシヴァルから時おり農作物が差し入れられることがあるので、今回もその延長だろう、と、そこまで瞬時に推理している自分自身にロランは苦笑した。
 クリスはテーブル席を立つと、奥の部屋から皿に載ったイチゴ数個を持って来た。もし市販されているものなら相当な値が付くのではないかというほど大粒で色の鮮やかな美しいイチゴ三粒である。

「ロランは好き? イチゴ」
「果物はあまり食べる機会がありませんが……でも、好き嫌いはないです」
「そうか。とてもおいしかったから、お前にもぜひ食べて欲しかったんだ」

 嬉しそうに言うと、クリスはイチゴを一粒指先で取り上げ、

「はい」

 と、それを弓使いの前に差し出した。

 ロランは固まった。
 それはかなり不自然な沈黙だったらしく、クリスもまたイチゴを持ったまま微動だにしなくなった。
 彼女がしようとしていることはもちろん分かっているのだが、いかんせん今までの人生で他人からそうされたことが無かったため、今この瞬間にそのときが訪れたことにロランはいささか驚いたのである。
 クリスはというと、笑顔を徐々にこわばらせ、男の真意を探るように両目を細かく微動させていた。

「…………ご、めん」

 ぎこちない声がクリスの口から漏れる。ロランはハッとして背筋を伸ばした。どうやら彼女は拒まれていると勘違いしている。
 ちがいます、と、ロランもまたぎくしゃくした口調で応えた。

「あの、嫌では、ありません」
「え……そう? でも、こういうの恥ずかしいよな」

 ごめんな、と苦笑いをされる。しかしどこか傷ついた面持ちでいる恋人にロランは耐えきれなくなって、差し出したイチゴを下げようとするクリスの手首を掴み、軽く屈み込んで、彼女の指から前歯と唇を使ってそっとイチゴを取り上げた。
 そのとき指先に舌が触れてしまったらしく、クリスの口から何とも言えない声が出た。イチゴはすでに口の中に収まっていたが、恋人の可愛らしい反応を耳にしたロランは掴んだ手を解放せず、上目遣いで彼女を見た。目の前には、瞬く間に頬を紅潮させたクリスの顔がある。
 ロランはイチゴを噛みながら、言葉にする代わりに微笑してみせた。するとクリスは男の意図を汲んだらしく、もう……と呟き、イチゴ色に染まった美味しそうな頬をぷっくり膨らませた。



19


 ふと目を覚ますと、室内だった。壁にあるランプの火がかろうじて灯っているだけの、薄暗く寒々しい自室だ。
 静まりかえったところに時計の針の乾いた音だけが響いている。空気感からして今はまだ夜中のように思われた。
 肩が冷えていて毛布を引き上げようとすると、胸元に自分のものではない別の体温があることに気付く。それは大きくごつごつした男の手で、クリスの乳房をちょうど包むような形で置かれていた。首筋にも、微かだが呼気が当たっている。
 ああそういえば――ぼんやりと先ほどの情事を思い出す。今回のロランは妙にしつこく、散々いやらしいことをされて体力を奪われ、ぐったりしてしまい、ロランも心配になったらしく「しばらく側にいます」とクリスが寝静まるまで待っていたのだ。だが消耗したのは彼も同じのようで、耐えきれず隣で寝てしまったのだろう。クリスを抱き枕にして。
 苦笑し、彼を起こさないように注意を払ってそっと身体を回転させる。すると身動きに気付いてしまったのか、クリスに回していた男の腕が大きく動いた。案の定、ロランの顔を見ると黄金色の瞳がうっすらと覗き、眠たげな様子でクリスを眺めていた。
 ごめん、と唇を動かすと、彼は微笑して大きく息をつき、指先を持ってきてクリスの頬をするりと撫でた。ほのかなくすぐったさに目を細めているうちに、再び長い腕を回して懐に引き寄せ、閉じこめてくる。
 抱き枕にされると寝返りができなくなってしまうんだけどなあとクリスは困惑したが、手のひらの温度を背中に感じられるのは嬉しいし、まだ部屋に戻る素振りのない恋人に安心しているのも事実だ。
 嘆息しつつ、クリスもまたロランの身体に腕を回し、ゆっくりと打つ男の鼓動にうっとりしながら再び瞼を閉じた。



20


 ロランの肌は驚くほど白い。エルフという種族に出くわしたことがほとんどないため同種族で比較はできないが、人間ではなかなか見られない真っ白な皮膚を彼らは持っている。かつてビュッデヒュッケ城にいたエルフのネイもまた雪を思わせるほどの美白だった。しかも男女問わず透明感があるところが憎いところだ。
 エルフという種族は生涯森の中で暮らすというし、野外で過ごすことが多そうな肌がこれほどまでに白く美しいのは不思議だが、きっと彼らの揺るぎなき遺伝子がその肌を守っているに違いない。
 クリスもかなりの色白であるため、周囲から「具合でも悪いの?」と心配されることが多々あったが、エルフの存在が六騎士として近くなってからは比較対象ができたらしく何も言われなくなった。代わりに彼が「顔色がよくない」と心配されることが多くなったようだが。
 ベッドの上で仰向けに寝ている男の素の胸元をじいと眺める。うとうとしているところを起こさずにいたら、彼は事後の疲労感で早々に眠ってしまった。彼は睡眠が大事らしく、よく寝る。時間があれば昼寝をすることも多いらしい――もしかして睡眠に美白の鍵があるのだろうか? エルフたちは睡眠時間が長いから日に当たることが少なく、それゆえに雪原のごとき肌を守り抜いているとか――
 考えながら指先でみぞおちをつとなぞると、男はびくっと身体を震わせて目覚めた。クリスの存在に気が付き、ああ、寝てしまった……という顔をし、申し訳ないと眠たげな声で謝った。

「そろそろ、お暇を」
「えっ、もう帰る? もう少し見せておくれよ」

 何を、と不思議そうに返されたので「お前の肌だよ」と答える。ロランは困惑したらしく、首を傾けて先ほど触られたみぞおちを片手で撫でた(くすぐったかったのだろう)。

「肌……ですか?」
「ああ。お前の白い肌が目に眩しくてな。眠気覚ましに丁度いいんだ」

 訳の分からない説明をし、クリスはロランの胸に上半身を乗り上げると、そこに寝そべった。戸惑ったようにロランは身動ぎしたが、上から固定されて逃げ出せなくなったことに観念したのか、クリスの背中を手で撫でつけてくる。

「クリス様の肌の方が遥かにお美しいです」
「お前……嫌味にしか聞こえないぞ」
「私の肌は、人間にとってはどうやら白すぎるようです。病んでいるのかと不安がられます。
 クリス様のようなほどよい白さは健康的でよろしい」

 どうやらロランはクリスの肌が気に入っているらしく――いや、おそらくクリスの全身が気に入っているようで、何かにつけてべた褒めをしてくる。肌がきれい、髪が美しい、顔立ちが整っている、胸の形がよく、脚はすらりと長い、などなど。
 戦いに身を投げていたクリスは自分の外見について気に留めたことがほとんど無かったが、この正直なロランが言うのだから、もしかしたらそうなのかもしれないと最近自信がついてきたところだ。世辞かもしれないが、世辞であっても嬉しい。

「ロランだって、すらっとしていてきれいだよ」

 お返しをすると、彼は小さく唸ったあと、クリス様には及びませんといつも通りの返答をしてきた。男がきれいと言われるのは彼にとって不思議なのだろう。
 この男は本当に頑固だよなと苦笑して、クリスは白い男の胸の上で瞼を閉じる。
 雪のごとく白い、というのは訂正しなければならないな。
 クリスは思う。
 もし本当に雪ならば、男の胸がこのように柔らかな温度を持っているはずがないから。