1
「ロランってけっこう助平だろ」
言われ、清廉潔白なエルフは固まった。実に三週間ぶりに床を共にしようとクリスに迫った際の出来事だ。
クリスの白い頬や鮮やかな色をした素の唇――たびたび彼はこの女性は口紅を付けない方がいいと思っているのだが――に何度か口付けた後、さて彼女の首すじを舌でなぞろうと邪魔な襟付きのシャツを脱がし始めたとき、顔を真っ赤にしている彼女がロランの胸を両手で押し、斜め下を向いてそんなことを口にしたのだ。
しばらくのあいだロランはいろんなところを停止させていたが、クリスがふと窺うように目を上げたのにハッとして、ようやく口を開いた。
「私が、ですか」
「そうだ」
こっくりと頷き、肯定される。それはそれで少し悲しいものがあるなと思いつつも、いそいそと彼女を抱く準備を始める自分がいつになく喜んでいるのは確かだ。否定はできない。
「……お嫌、ですか」
この無邪気なる生粋の乙女には、通常の人間並みに(と、ロラン自身は思っている)性欲を抱く男では刺激が強すぎるのだろうか。
そこはかとなく落ち込んでしまい、彼女の肩に両手をかけたまま目を伏せる。するとクリスは慌てたらしく、
「いや、ち、違う、嫌なわけじゃなくて……ただ、その、私が免疫がないだけなんだ。私がいけないんだ」
と、ロランの首に両腕を回して抱きついてきた。彼女を受け止めたかったが、まだ許可をもらったわけではないので、理性でもってその衝動をこらえる。
我慢をしている恋人に気付いたクリスはますます必死になり、半ばしがみつくようにして身を寄せた。
「ロラン、違う、不安がるな。私がいけないんだってば。私にとっては全部が初めてなんだし」
「……」
「お、お前は普通、だろう? 普通だよな?」
問われ、エルフと人間の性欲に差はあるのだろうかと一瞬真面目に考えたロランだが、調べる気にもならないため「だと思います」と曖昧な返事をしておいた。返答に対し、ホッと安堵の息を漏らしているクリスの無垢加減は度を超えているとつくづく思う。
クリスが絶対に離れないといった様子で密着したままでいるので、だんだん自信を取り戻したロランは華奢な背中に手のひらを這わせながら、そっと耳やこめかみに口付けた。恥ずかしそうに顔を背け、クリスはロランの首もとに顔を埋める。
「……ごめん。私だって助平だよな。だって、こういうふうにしてもらえて嬉しいんだもの」
くぐもった声が聞こえる。
見えないことをいいことにロランは破顔し、片手で彼女のシャツのボタンを密かに外しながらその身体を押し倒した。
2
クリス様には酒乱の気があります。
あの軍師、彼女の保護者的存在である偉大な男の忠告を、もう少しよく考えておくべきだったのだ。
その日、やや具合が悪いと訴えるクリスを気遣って、サロメとロランは寝酒をキャンセルするつもりだったのだが、彼女が寂しがるのに折れて(もとよりクリスに甘えられて断れる男どもではない)普段の通り三人で少量のワインを口にし、サロメは事務の続きがあるといって先に退室した。残されたロランも騎士団長の体調を考慮し、サロメを追おうと席を立った瞬間、なぜかクリスがしくしくと泣き始めて度肝を抜かれた。
前触れが無かった。突然のことに身体は硬直しつつも、頭ではものすごい勢いでその理由を探し回っていたロランだが、何ひとつ原因が見つからないという結論に至り、弾かれるようにクリスに問うた。
「クリス様、どうされました」
声をかけられたことがきっかけとなってか、クリスはわあわあと泣き始めた。冷静さに定評がある弓使いも、好きな女の根拠のない大粒の涙を見れば脳内大パニックは避けられず、思わず椅子に座ったままのクリスを抱きしめて頭を撫でた――むろん、この大音声では外に聞こえてしまうため、口を身体に押しつけて防がなければという理性もしっかり働かせていたのだが。
名前を呼んだり必死に捻出した言葉をかけたりしたものの、銀の乙女は土砂降りの雨のごとく泣きじゃくって止まらない。何かを言っているのだが滑舌が覚束なく、ロランはそこでハッとしたのだ。
クリス様には酒乱の気があります。
これだ。
クリス様、どうかお水を飲んでくださいと身体を離そうとした矢先、暴れたクリスの拳がかなりの勢いでロランのみぞおちに入った。
華奢なクリスだが、剣を振るう腕から発する力は男性をしのぐ怪力である。一瞬息ができなくなり、がはっと声を上げてロランは後ろによろけた。呼吸が苦しく、前かがみになって眉を寄せると、急に、
「ロっ、ロラン、大丈夫か!?」
クリスの、ついさっきまで泣き叫んでいたとは思えないクリアな声が聞こえた。
「ごめんっ、本当にごめん!!」
椅子をガタっといわせて立ち上がり、身体に抱きついてくる。大丈夫ですと安心させたかったが、掠れた息と咳しか出ず、ますますクリスは蒼白になって何度も謝り続けた。とりあえず首を横に振ることで心配するなと伝える。
ようやく落ちついてきた頃には、クリスは酒乱のためではなくロランに暴力を振るったということに激しく落ち込み、ぽろぽろと涙を流していた。
「ごめん……ごめん、ロラン……」
涙を拭うため、すでにパンパンに腫れてしまった目を更に手の甲でこするものだから、ロランはこれ以上クリスの肌に負担がかかるのを防ぐ目的で、その手を取った。彼女がびくっと身体を震わせ、潤んだ瞳で見上げてくる。
普段の凛々しい面影はどこへやら、ぐしゃぐしゃになった顔は哀れなほどだったが、それよりも愛おしいという気持ちの方が強く、ロランは苦笑した。
「クリス様、酔いが醒めたようですね」
穏やかな言葉に、クリスは目を丸くし、涙を溜めてきゅっと口を噤む。
「……ロラン」
「きっと、普段抑えているものがたくさん出てしまったのでしょう」
ゆっくり頭を撫でてやると、彼女は再びぐすんぐすんと泣きべそをかき始めた。
まるで幼子のようだ。
可愛らしい方。
腰を屈め、頬に流れる涙を唇で拭う。クリスは瞬く間に顔を赤くし、ぶんぶんとかぶりを振った。「だめ、今の私は醜いもの」と必死で訴える彼女の柔らかな唇を、それ以上は何も言わないで欲しいと指先でそっと押さえてやった。
3
「ロラン、キスしたいな」
そう、不意打ちで甘えるとき、必ず彼は、
「なぜですか」
と、無表情で訊いてくる。
一部のご婦人方には鬱陶しがられそうな返し方だが、クリスは全くひるまなかった。
「好きだからだよ」
口を尖らせながら答えてやる。
男は「やれやれ、仕方がないですね」というよりは「ふむ……それならば仕方がない」といったふうな面持ちになり、少し遠くを見て小さな息をついてから、すっと顔を近づけてクリスの唇に触れる程度の口付けをするのだ。
屈めた腰を元に戻して再び見下ろしてくる彼の表情は相変わらず無だが、クリスは知っている、その黄金色の瞳の中に愛の喜びと穏やかな優しさが宿っているということを。
クリスは満足げに笑い、ありがとうと礼を言う。
彼はうっすらと笑む。
二人の間にあるそんな静けさが、クリスは好きだった。
4
「ん、ロラン……」
欲望のために汗をかき、頬を紅潮させたクリスが潤んだ目で見上げてくる。この、普段は凛とした男勝りの姿の女性が自分の下で甘い声を出し始め、女という生き物に変わっていく様を見守ることがロランは好きだった。
少し湿った白い頬に手のひらを滑らせながら、なんですかと返すと、クリスは身じろぎ、ロランの首に両腕を回した。柔らかな二つの素のふくらみがロランの胸に押しつけられる。
「ロラン、前に自分は普通だって言った」
「……? すみませんが、いつの話でしょうか」
「私が訊いた時だ。ロランの、その……よ、欲望は……他の男性と比べて……」
耳まで赤くなり、消え入りそうな声で言う。ああ、あの時の話だと思い出し、ロランは頷いた。
「はい」
「でも、こ、これが……普通、なの? みんな、こんなふうに……」
気持ちよくなってしまうの?
あまりにあどけなさすぎる言葉に、もはやこの無垢加減は罪であろうとロランは心を震わせ、今すぐにでも彼女の中に侵入してぐちゃぐちゃにしてしまいたいという衝動に駆られたが、そこは理性でぐっと押しとどめた。
彼女は、彼女の身体は、まだ白紙の状態だ。全てはロランの思いのままで、どんなふうにも染められるが、一歩間違えばひどく濁った色になり取り返しがつかないことになる。無垢なこの女性を傷つけたくはないのだ、絶対に。
「さあ、分かりません。私は、あなたが心地よいのならそれでいいのですが……」
薄く笑んで言ってやる。クリスは問いの具体的な答えを与えられなかったことに不満を抱いたのか、むう、と唸り声を上げてロランの首を唇で甘噛みした。
先ほどの彼女の問いは非常に危険だ――もし他の男に塗りたくられたいなどという気を起こしたら、さすがの自分もどうなってしまうか分からない。
だから今、ロランは彼女に告げたのだ。私は、あなたが心地よいならそれでいいと。
私のすべてはあなたのためにあるのだと。
「……私もロランが気持ちいいなら、それでいい」
小さな呟きが耳元で聞こえ、ロランはほくそ笑んだ。
ああ、あなたは知っているか。
私の答えは、あなたへの束縛であるということを。
5
まどろんでいるロランに話しかけるとけっこう面白いのだ。
彼はすぐに眠たくなるたちなのか、仕事の休憩時間にソファに座って話している最中、クリスが席を外して手洗いなどに行っているなどの間ができると、うつらうつらしている姿を時々見せることがあった。もちろん仕事には真面目なので業務中に寝るということは一切ないが、休むための時間があるのならばできる限り瞼を閉じたいらしく、静かな空間ができると早速腹の上で手を組んで、そんな無防備な状態になっている。もちろん、クリスと恋仲になって警戒心を解いてくれた後、ようやく見せてくれたものではあるのだが。
ロランが夢の世界に旅立ってしまえば、いくら部屋に一緒にいたとしてもクリスはひとりぼっちになってしまう。どうにかして彼を起こしたいと思い、飴玉などのお菓子を入れた小さな瓶を持ってそそくさとロランの前に行き、もうそろそろでまどろみのゲートを抜けてしまう彼に話しかけてみるのだ。
「ねえロラン、お菓子食べる?」
あえて声量を少し大きくして言うと、ロランはハッ……と重たい瞼を上げ、ぼんやりとした目つきでどこでもない場所を眺める。
「……お菓子……?」
「うん、お菓子」
すると彼はいまだ夢の景色を眺めているような覚束ない口ぶりで、
「お菓子……食べません……」
とむにゃむにゃ呟き、「騎士団長の命令なら起きなければ、しかし今は休み時間であるし、少し寝たい、寝よう……」という苦悩から安堵への一連の表情を見せて、再び寝る。
クリスは弓使いの可愛らしい姿にきゅんきゅんと胸をときめかせ、瓶から飴玉を一個取り出して満足げに口に含むのだった。
6
クリスが自分のことを「かわいい」と形容するのは一体何なのだろうとロランは以前より疑問に思っていた。
ロランの感覚からすると、女性が男性を褒める時には、たとえば「格好がよい」だの「凛々しい」だのと言うものと思っていたし、ゼクセの街路で騎士の姿を見かけた貴婦人や子どもたちは「騎士様だ、格好いい」と声を上げることが大半のように思われた――とは言っても、ロランは誰かに賞賛されたとしても、パーシヴァルのようにさらりと礼を言うことはできないので困ってしまうだけなのだが。
かわいいと言われても嬉しくはないのだが、もしかしてこれが今の流行であるのならば致し方ないのではないか……などと、端から見ればどうでもいいことを真剣に考えていたとき、ベッドの中でもそもそしていたクリスがきょとんとしてエルフに問うた。
「どうした、ロラン」
毛布から顔を覗かせるようにしているクリスに、そうだ、かわいいというのは女性のこういった姿のことを言うのだと胸中で己の意見を正当化し、答える。
「いえ、私はやはり“かわいくない”と思います」
くそ真面目に断言すると、クリスはポンと頭の上にハテナを数個浮かべてロランを見つめ返した。ロランもまた真摯な視線を恋人に送る。
するとなぜかクリスはくしゃっと顔を笑わせ、シーツの上を這うと、ロランの首元に抱きついた。
「いや、お前はかわいいよ」
また言われてしまった。
クリスの髪を撫でながら、ロランは訝しげに小さな溜息をつき、一体何が違ったのだろうと再び思考の森に足を踏み入れたのだった。
7
「綺麗な髪ですね」
ベッドの上に座り、クリスを後ろから緩く抱いていたロランが、不意にそんなことを呟いた。何も身に纏っていない二人の体温の間にあったものが、腰まであるクリスの長髪だったのだ。
真っ直ぐで癖のつかない重たい髪は、持ち主にとっては時おり邪魔以外の何ものでもないのだが、言葉にはしないものの弓使いが妙に気に入っていることを薄々感じ取っており、そう簡単に切ったり粗末に扱ってはならないのだろうと考えていた次第である。
クリスは男の息をうなじに感じつつ、苦笑した。
「そうかなあ」
「ええ」
彼の右手が銀の毛束を取り、親指でゆっくりと撫でているのがクリスの斜め下にある。ちなみに彼の左手は胸の下をなぞっていて、少しくすぐったかった。
「まるで清らかな流水のようですね」
「あのなあ……どうしてそういう台詞がすらすら口から出てくるんだ」
「? そういうつもりではないのですが」
もしパーシヴァルならここでもまたウィットに富んだ言葉を返してくるのだろうが、心底不思議そうな回答をしてくるところがこの男らしい。
彼が手のひらで髪を弄んでいるのをなんとなく眺めて、そのうちクリスはくるりと身を翻すとロランの正面に向き直り、お返しにと片腕を伸ばして彼の髪を撫で始めた。
ロランが戸惑ったようにクリスの顔を見つめてくる。
「クリス様……あの、とてもこそばゆいのですが」
「ロランはかわいいな」
「かわいくはないです」
一体どこがかわいいというのですかと少し拗ねたような声で言うのは、男が可愛いと形容されるのが腑に落ちないからなのだろうと微笑ましく思い、クリスはふにゃりと破顔した。
「分かってないなあ」
「分かりません」
「お前のそういうところに気付いた女子はけっこうたまらないと思うぞ」
「? 意味が分かりません」
クリスが優勢でいることが不満だったらしい、ロランは頭を撫でるクリスの手を取り、そこに自分の指を絡ませ、もう片方の手でぐっと胸を押してきた。シーツに背が着き、ベッドに組み伏せられた体勢になる。
乱れた銀の毛がクリスの背中をくすぐる。空気に触れていた髪はやや冷たい。彼が流水と表現したのはあながち間違っていないだろう。
自分を見下ろす男の瞳は、今後起こることへの期待からか妖しい色を宿している。
クリスは空いている方の手で彼の痩せた頬に触れた。
「ロラン」
「はい」
「この髪が好きだというのなら、髪の先まで愛しておくれ」
静かに言ってやる。
ロランは少しの間クリスの顔を見つめ、ええ、と低い声で答えながらクリスの首筋に口づけを落とし始めた。
8
ロランは背が高く非常に姿勢が良い。
背の高い者は、周囲が自分よりも低い位置にあるせいか屈むことが多く、猫背になってしまいがちだという話をよく耳にするが、ロランはそんなことを微塵も感じさせないほど背筋がしゃんとしていて美しかった。おそらく弓を引く者であるために自然と正しい姿勢になってしまうのだろう。
なので三十センチ以上の身長差がある自分のために彼が屈むのは申し訳ないとクリスは思っていた。クリスが過剰に意識しているだけだろうが、なんだか前屈みになって自分に顔を寄せてくる様子が苦しげに見えてしまうのだ。それに、頭の位置が低い自分と話す機会が多くなったせいで彼が猫背になってしまったらどうしようという不安もあった。
だからこの前、がんばってつま先立ちになったり背伸びをしつつロランと会話をしていたら、あからさまに怪訝な顔をされた。
何をしているのですか。
さっぱり意図が掴めないといった真面目な問いに、クリスは上げていた踵を戻してしょんぼりとうつむいた。
そして事情を話すとロランはなぜか口元を手で押さえ、白い頬を紅潮させて目をそらし、眉間に皺を寄せながら考え込む仕草をした。
どうしたと尋ねると、彼は「クリス様はありのままのクリス様でよいのです」とようやく聞き取れるような声量で呟く。
そのような態度を取られる意味が分からず、依然ふてくされたまま「私が百九十センチくらいあったら釣り合いが取れるのに」とクリスが言うと「絶対に嫌です」と彼は真剣な面持ちできっぱりと断じた。
後日、他の騎士たちにもその思いつきを教えると『絶対に嫌です』とロランと全く同じ表情で声を揃えられる。
未だに彼らの回答にピンときていなかったが、ある時サロメに「でも、そうなったらもうロラン殿に頭を撫でてもらえなくなるのでは」と言われ「それは絶対に嫌だ!」と声高らかにクリスは断言したのだった。
9
「見ろサロメ、ロランから飴玉をもらったんだ」
喜々とした声と共に鼻の間際までぐいと瓶を突きつけてくるのは、興奮した様子で頬を赤らめているクリスだった。弓使いにもらったというジャム瓶程度の大きさのガラス瓶には、色とりどりの小さな飴玉が詰まっている。まだタグがついたままで開封していないところからすると、弓使いはどうやらこれをプレゼントとして騎士団長に渡したようだ。
そういえばこのタグはゼクセの洋菓子店で見かけたことがあるなと考えを巡らせつつ、サロメは半ばうんざりして顔を背け、「良かったですねえ」と社交辞令的な返事をした。
「プレゼントですか?」
「ああ」
両手で瓶を包み、嬉しそうに見下ろしているクリスは、どこからどう見ても年頃の乙女だ。戦場では剣を振りかざし、鬼のような形相で騎馬をする女と同一人物であるとはまるで思えない。
今日がクリスの誕生日というわけではないので、おそらく貰い物をクリスに渡したか、ゼクセに行ったついでに土産として買ったかのどちらかだろう。「食べるのがもったいないなあ」と顔を上気させてにこにこと笑っているクリスを見下ろし、サロメは溜息混じりに尋ねた。
「なんのプレゼントでしょうか?」
果たして弓使いの思惑とはなんぞやという疑問も含めての問いである。
「ロラン、ゼクセの本屋によく行っているみたいなんだけどな。その帰りに買ってきたんだって」
軍師を見上げもせず、瓶をじいと見つめたまま彼女は答えた。もはや騎士団長の心は好物である飴玉、いや、その瓶を与えてくれた愛しの弓使いに奪われてしまっているようだ。
「つまり土産物だな。廊下ですれ違いざま、ちょっと照れ臭そうにしながら私にくれた。嬉しくてドキドキしてしまったよ」
綺麗な飴玉だなあ!と今度は瓶を部屋の明かりにかざして眺めている。とろけた表情ときらきらした目、今にも無意味に瓶へ口付けをしてしまいそうに笑まれた口元に、サロメはなんだかげんなりしてしまい、踵を返して自分の机に向かった。そう、ここはサロメの書斎で、ロランに飴玉の瓶をもらったというそんな些細なこと――彼女にとっては人生最高の出来事――を報告しに、わざわざ仕事中の軍師の部屋の扉を叩いたのである。
背後から「これは一つずつ大事に食べるんだ、申し訳ないがお前にはやらんぞ」という声が聞こえてきて、サロメは「要りません」と気力を失った声で返したのだった。
10
「サロメっ、サロメサロメ、私が間違っているのか!?」
わあああああんと泣きじゃくりながらクリスはソファに突っ伏し、机と本棚の間を往復している軍師宛にメッセージを送り続けているのだが、あいにく仕事中ということもあり、先ほどからなかなか冷たい対応をされていた。「はいはい」だの「それは大変でしたねえ」という、ちっともクリスの痛ましき心中を理解しようとしていない気のない返事ばかりなのだ。
「だってあんな綺麗な女性に告白されて断るなんて! 女神ロアの雷が落ちたって不思議じゃない!」
どすんどすんとソファを叩き、自分は今これだけ心乱され悲しみ苦しんでいるのだと訴える。しかしサロメは相変わらず淡泊だった。
「言いたいことがあるのならロラン殿に直接言えばよいでしょう」
正論で返される。負けじとクリスは顔を上げ、(今のクリスの胸中からすると)血が通っているとは思えない軍師をキッとにらみつけた。
「言ったよ! 十分すぎるほど私は言った! どうしてあの貴婦人の告白を断るのだ、私なんかよりずっと美しく聡明そうな女性ではないかと!」
「それで、ロラン殿の反応はどうでしたか」
「怒ったんだああぁぁ」
思い出し泣きで土砂降りの雨のごとく涙を降らせるクリスの頬は、頭を湯船に突っ込んだのではないかというほど濡れ、前髪が貼りつき、とてもではないが人前に出られる状態ではなかった。サロメも初めは「涙を拭ってください」とハンカチだのタオルだの親切にくれたが、全ての布がぐしゃぐしゃになって使い物にならなくなった様子を見てうんざりしたらしく、恋人と喧嘩をして書斎に転がり込んできた騎士団長を部屋のソファに放置し、書物との対話を楽しむことにしたようだった。「お前はいっつもそうだ」とクリスが声を上げてみても駄目だ。
「ま、ロラン殿の言いたいことは、私にもよく分かりますよ」
「……どうして」
ぴたりと泣くのをやめ、ぐすんぐすんと余韻を残しつつ、軍師を見る。彼は少し苛立っているのか、はあ!とあからさまな溜息をついてクリスをじろりと一瞥した。
「よく考えてごらんなさい。もし逆の立場だったらクリス様はどう思われます? あなたが、誰もがうらやむ素敵な男性に告白されたとします。それを知ったロラン殿が“自分などよりあの男の方が良いでしょう、さよなら”なんて卑屈なことをクリス様に言い始めたら」
「ひ、卑屈? 私は卑屈なのか?」
思わず動揺して問う。サロメは真顔でこっくりと頷いた。
「世間一般にはそういうふうに思われるでしょうね。クリス様が言ったら尚更、嫌味にもなります」
「……卑屈……そうなのか」
ならば私は嫉妬深くて卑屈で嫌味で最低な女なんだ……と真剣に落ち込み、クリスは深くうなだれた。どうして自分は人の心に疎く、しかも自分の本当の姿にすら気付かないで、好きな男を怒らせるような真似をしてしまうのだろう。恋愛においては自分でも信じられないほど無知で間抜けで鈍感でとにかく駄目だ。
様々なショックで頭が上手く働かず、ぼうっとしていると、明らかに「面倒くせえなあ」という呆れが込められている口調で軍師が続けた。
「クリス様だって嫌でしょう、ロラン殿が引き下がると言い始めたら。それとも別の男に乗り換えますと返事をするのですか?」
「まさか! たとえ他の男が私を気にかけようとも」
「つまりそれですよ。ロラン殿はそれと同じ思いをしているんです。早く謝りに行きなさい」
しっしっと片手を振って追い払おうとするサロメを見た衝撃で、クリスの目に再び涙が溜まる。
「だって……もう嫌われてるかもしれない……」
顔をくしゃりと歪めて詰まるように言うと、サロメはもはやクリスを見向きもしないで手に持っている本に視線を落とした。
「いいですか、クリス様。唯一変わらぬ真実があります。ロラン殿は、あなたを心底好いているからこそ、そのように怒ったのです。さっさと行かないと彼の気持ちが冷めてしまいますよ」
ぴしゃりと言われ、クリスはぐっと口を噤んで涙をこぼしながら床を睨んでいたが、じきに「分かった」と呟きソファから立ち上がって部屋から出た。
クリスが去った後、最近書斎で飼い始めた金魚のガラス鉢に近づいたサロメが「ここまでとは思いませんでしたねえ」と溜息混じりに愚痴ると、まるで相づちを打つかのように金魚がプクプクと泡を吐いたことをクリスには知る由もない。
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