パンジー   花言葉は「私を思って、純愛、もの想い」





「あら……これは」

 部屋の掃除に来ていた侍女の声に、クリスは顔を上げた。ちょうどソファの辺りを掃いていた侍女ラステアは、手に一冊の薄い文庫本を持ってそれをまじまじと見つめていた。
 卓上で事務を進めていたクリスは、彼女の手の本を見て、そういえばと思い出す。

「それは、ロランの本だよ」
「そうですわよね。クリス様はこういったものをお読みになりませんし」
「忘れていったのかな」

 そろそろティーカップの中の紅茶も無くなる頃だし、新しいのを淹れようと立ち上がるとラステアが慌てた様子で走り寄ってきた。「私がやります!」と本をクリスの机の上に置き、カップとポットを素早くトレイに並べると奥の部屋へ消えていった。
 まったく過保護にもほどがあるなあ?とふくらみのある腹に話しかけつつ、再び椅子に腰を下ろす。ラステアの置いた本を取り上げ、その表紙を眺めると『忘却の果て』というタイトルが書かれていた。比較的新しい本らしく、本の裏表紙にはゼクセの街にある公共図書館の印がある。ぱらぱらとめくればそこには細かい字がびっしりと書かれていて、どうやら内容は小説のようだ。
 クリスはそれほど本が好きではない。本嫌いというわけではないが、字を目で追うと眠くなってしまうのだ。一方のロランはブラス城でも有名な読書家で、クリスは未だ入ったことがないが彼の部屋にはたくさんの本が詰まった本棚があるらしい。
 一体ロランはどんな本を読むのだろう。どういった話が好きなのだろう。表紙を撫でながら考え込んでいるうちに、ラステアがトレイを持って戻ってきた。

「その本はね」

 言いながら、ティーセットをクリスの机の上に置き始める。

「実は私も読んだことがあるんです」
「え、そうなのか。どんな内容なんだ?」

 自分で読もうとする気は起きないクリスである。

「小説ですわ。ある娘と、その娘を好きになった男の話です。娘は父親からかけられた呪いのせいで、人を愛することを忘れてしまった。それでも男はその娘を愛し続けるという、平たく言えばそんな物語です」
「ふーん。なんだかもの悲しいな」
「恋愛物語ですわね。ロラン様も意外にそういったジャンルがお好きなのかしら?」

 さあねえ、と頬杖をついて意味もなく本の表紙と裏表紙を交互に見やる。ロランの興味のあるものなら何だって知っていたいが、それでも自ら本を開く気力は湧かなかった。
 本を置き、ラステアに差し出された紅茶を口にしながら、クリスは物思いに天井を眺めた。

「他にどんな本を読むのかな、ロランって」
「さあ。でも、昼休みに中庭のベンチで本を開いてらしたり、食堂に本を持ってきたりしているところは何度か見かけたことがありますわ。本の虫なのでしょうね」
「ふうん。
 ところで、この小説の娘はどうして父親から呪いなんてかけられたんだ? 仲が悪かったのか」
「ええと、確か……娘が身分の卑しい男と愛し合って、それを許せなかったからじゃないかしら。その男のみならず、他の誰も愛せないようにと、娘から人を愛する心を失わせてしまった。この娘は……このようなお話、クリス様にしてよいのか分からないけれど、娘は男に抱かれると、その男を必ず殺してしまうという呪いをかけられてしまったの。だから娘は人を傷つけないために人を愛する心を封じてしまった……というような内容でしたわ」

 それは……と、クリスは眉間にしわを寄せて本の表紙を見つめた。ロランは一体どのような気持ちでこの物語を読んでいたのだろう。呪いという点では、クリスの右手に宿された真の水の紋章と同じであるが……

「少し前ですけど、一時期流行った本ですのよ。比較的短い話ですし、読みやすいという噂があったので、私も読んだんです」

 壁に立て掛けたほうきとちりとりを取りに行きながら、ラステアが言う。クリスは机に置いた本をぼんやりと眺め、そうかと頷いた。

「そういえば以前二人でゼクセに行ったときも、ロランは本屋で小説を買っていたな。物語が好きなのかな」
「そうかもしれませんね。なんとなく、ロラン様はロマンチストなところがあるような気がしますわ」

 それはあながち間違ってはいないだろう。彼の口から時おり出る、身体がむずがゆくなるほどの甘く誠実な言葉は、もしかしたらあまたの本が影響しているのかもしれない。意識的に引用しているわけではないだろうが、読書家なのは昔からだろうし、彼の性格や言語野を形成している一部のようだ。
 少しの沈黙のあと、クリスは尋ねた。

「なあ、この本の男は愛したのか、最後まで。その娘のことを」
「ええ。やはり男は死んでしまって、女は愛することを男の死によって思い出すという悲恋でしたけど、腑に落ちる内容でしたわ」
「そうか……」

 ラステアが再び掃除に取りかかった後も、クリスは忘れられた本を眺め続けていた。ロランには内容について知らないふりをして返すべきだろう。
 弓使いが本の中の男と同じ立場だったら、彼は一体どのような道を選ぶのだろうか。
 訊いてみたい気もしたが、それ以上に訊くのがこわかった。