リューココリネ   花言葉は「温かな心」





「クリス様。本日は寝酒を遠慮させていただこうと思います」

 昼間、廊下ですれ違いざま、そうきっぱりと断られた。寝酒と称しているクリスの自室での逢瀬であるが、現在クリスは妊娠中ということもあり、ロランがちまちまワインを口にする程度の座談会になっている。断られることについて別段問題があるわけではないのだが、ほぼ毎日行われている慣習のため、いざ中止を宣告されるとドキリとしてしまう。
 かつて、寝酒はクリスとサロメの行事だった。騎士団長と弓使いの二人が恋仲になったのち、軍師は寝酒に来る回数を減らした。始めは、寝酒の席に第三者が来ることで二人に対する周囲の疑念を遠ざけるつもりだったようだが、妊娠までいった男女の仲を今更隠す気も失せたのだろう。膨らんできた腹を圧迫しないために鎧を着用しなくなったクリスを見て、世間に何の疑問も浮かばないはずがない。貴族たちからの反応は芳しくないが、ブラス城の騎士や兵士たちや給仕たちは、思いのほか「喜ばしい」と好印象な様子だった。弓使いに対しても、以前から噂になっていたこともあり、おずおずと申し出てきた先輩父親たちが子育ての方法やら妻を不安がらせない方法やらを教授しているらしかった。クリスはあまり介入せず、相方の好きにさせようと考えている。
 近頃の寝酒の席では、無口だったはずの弓使いが、自分からよく喋るようになっていた。そのほとんどがクリスの体調や子育てについてであり、どうやら彼はこれから生まれくる子どもが楽しみで相当そわそわしているらしく、晴れやかな表情で未来を心待ちにしている男の姿を見るたびに、この男が伴侶でよかったとつくづく感じるのだった。
 今日もそんな姿を見ることを楽しみにしていたのだが、その願いは叶わないようだ。そうか……とクリスが微笑して返事をすると、ロランはクリスを見下ろし、欠席の理由は士官学校の生徒のためであるということを淡々と告げた。

「今度、士官学校内の定期試験があるのです。選抜クラスの子どもたちが、法学の復習のために、私を交えて勉強会をしたいと懇願されまして。今回の問題は私が作るわけではないので、かまわないと返答をしました」

 なるほどそういうことかと、クリスは感心しながら頷いた。

「頼りにされているのだな」
「頼り……まあ、そうですね。今度の試験はかなり難易度が高いので、力になってやれるかどうかは分かりませんが、勉強熱心な子たちの集まりですので、私もそれ相応の態度でいなければなりません」
「勉強会はどこでするんだ?」

 質問しつつ、これから自分は自室に向かわなければならないと言うと、母体を心配したのかロランは部屋まで送ると申し出た。階段を上るだけの、大した距離ではないのだが、やはり愛する男が隣を歩いてくれるのは嬉しい。

「子どもたちは街に住む者たちばかりなので、業務後に私がゼクセに向かいます。学生が、家の一室を借りるとのことでした」
「そうか。ロランはすごいな、騎士団の通常業務のほか、士官学校の講師も兼任できるのだから。忙しすぎるということはないか」

 尋ねると、階段を上る先を見つめたままロランはかぶりを振った。

「いいえ、充実しているとしか思いません。実は、もともと教育に興味がありましたので」
「そうなのか?」
「幼少時はエルフの里で学んでいた私ですが、当時から彼らの教育法には疑問を抱いていました。里は外界に対する偏見で凝り固まったエルフたちで充満していましたので、教育方針もよそから見れば異常だとしか思えません。本来の教育とはどういった在り方をしているのかと、深く考えていた時期もありますので」

 本当にこの男は生真面目だなあ……とひそかに苦笑し、クリスが最初の階段を上り切って踊場に足を踏み入れたとき、兵士が慌てた様子で駆け下りてきて、どんとクリスにぶつかった。
 身体が後方に倒れる。足が宙に浮く感じを覚え、目をまん丸くしたその時、クリス様!!という大声が辺りに響き渡った。
 途端、片腕を強い力で引っ張られ、今度は前へとつんのめる。自分がどのような状態になっているのかよく分からなかったが、そのとき見えたのは、倒れそうになるクリスを支えようと踊場に仰向けに倒れ込む弓使いの姿だった。彼にぶつかってはいけないと思い、咄嗟に避けようとしたが、ロランの目的は自分自身がクッションになることのようで、大きく腕を広げてクリスの身体を抱き留めようとした。相手は鎧姿のため、むしろこの金属にぶつかる方が災難なのではないかと考えたが、ロランは両手でクリスの脇腹をきちんと押さえており、顔や胸を彼の甲冑に強打するということはなかった。
 態勢が落ち着き、かなり多くなっている心拍数を自覚しつつ、安堵の溜息をついた瞬間、

「気をつけなさい!!」

 大音声が再び周囲を襲った。
 始め、その声が誰のものなのか分からなかったクリスだが、ふと見上げた弓使いの形相が怒りに満ち、ぶつかってきた兵士を鋭い目で睨みつけているのに気付き、声の主がロランであることを悟った。
 ロランが怒鳴っている――自分が誰かにぶつかられたということよりも、そちらの方に驚愕してしまい、クリスは唖然とした。

「も、申し訳ありません!!」

 おそらく誰もが初めて聞くであろう弓使いの怒声に、兵士が恐縮極まりないといった様子で謝った。

「本当に申し訳ありません! ク、クリス様、ご無事ですか!?」
「あ……ああ」

 クリスはのろのろと弓使いの懐から身を起こし、兵士を見た。顔を見る限りあまり面識はなく、まだ若い新米兵士らしい。目を潤ませ、今にも泣き出しそうな顔で震えている。
 ロランが先に立ち上がったので、クリスも彼の手を取って腰を上げた。自分の母体もそうではあったが、どちらかというと弓使いと兵士のやりとりの方が心配で、未だかなりの怒りに満ちている男の顔を見上げつつ、クリスはロランの手を小さく引っ張った。

「ロラン、私は大丈夫だから」
「……」
「な。彼が受け止めてくれたから大丈夫だ、君。安心してくれ」

 クリスが微笑みかけると、新米兵士は目を真っ赤に充血させ、唇を震わせながら何度も謝罪した。





 騎士団長の自室に入り、侍女がいないと分かるなり、ロランはクリスの身体を向けさせ、その場にひざまずいた。

「クリス様、本当にご無事ですか」

 ひどく心配そうな顔つきで見上げられる。先ほどからいささか大げさな態度の弓使いに、クリスはぎこちなく頷いた。

「う、うん。お前が受け止めてくれたから怪我もないし」

 ロランは半ば聞いていない様子で頭から足まで眺めやり、次に手のひらをクリスの腹に当てた。どうやら胎児を心配しているらしい。
 ここまで気をもまなくてもいいんだけどなあと、薄く苦笑いを浮かべつつクリスは彼の手の上に自分の手を置いた。

「この子も異常なし、だ」
「本当に? 大丈夫ですか?」
「ああ。自分の身体のことだからな、なんとなく分かるんだ。明後日ジーンさんが検診に来るから、そのとき念のために調べてもらうよ」

 励ますつもりでクリスは言ったのだが、ロランはかなり落ち込んでいるらしく、その場に立て膝をついたまま、手で額を抑えて大きな息を吐いた。

「背筋が凍りました。もし、あなたの御身に何かがあったら……」
「ロラン……」
「このように取り乱すとは情けない。先ほどの兵士も、私の態度に怯えてしまっていた。騒ぎを起こすことになろうとは……大変申し訳ありません」

 深い自己嫌悪に陥っている様子の男が心配になり、クリスは彼の前にしゃがみ込んで彼の頬を撫でた。

「ロラン、私は大丈夫だから。心配しないで」
「……」
「そんなに暗い顔をされたのでは、お腹の子も不安がってしまうよ」

 お願いだ、と、いつも自分の腹にするように頭を優しく愛撫する。ロランは苦々しげに目を伏せていたが、ふとクリスを見ると、顔を近づけて額にそっと口付けをしてきた。

「……ジーン殿がいらっしゃる際には、私も立ち会ってよろしいですか」
「ん? ああ、かまわないが……まったく、ロランは心配性だ。我々の子だぞ? あの程度のことでくたばってしまうわけがなかろう」

 それでもなお納得いかない様子で、ロランはゆっくりと腰を上げた。これから午後の部下たちの訓練に立ち会わなければいけないのだという。時計を見ると、もう始業まで時間がなかったため、ロランは急ぎ足でクリスの部屋から出ていった。クリスもまた書類を書き進める仕事を始めなければならない。

「お前のお父さんは、教育熱心なうえ子ども想いだぞ。本当に良い父親を持ったなあ」

 自分の腹をぽんぽんと撫でつつ、しみじみと話しかける。返事はもちろんないし、胎内では声も聞こえないだろうが、胸に抱くこの温かな気持ちは、母の身体を通じて伝わってくれるような気がした。