エンゼルランプ   花言葉は「あなたを守りたい」





「失礼いたします。クリス様、先日の評議会の資料を確認……」

 “それ”を目撃した瞬間、ロランは硬直し、両手からは持っていた紙の束が大量に滑り落ちた。普段ならば反射神経で落ちきるのを防げるはずだが、両手が指先まで完全に開ききっていたため、一枚残らず床にばらまかれてしまった。クリスの部屋にいた侍女が慌てて走り寄ってくる。

「ロラン様! 大事な書類なんでしょう?」

 てきぱきと拾い始める侍女の姿は視界の端で認めていたのだが、それよりも部屋の奥にいる女性を見つめたまま身動きすることができず、ロランはひたすら部屋の出入り口に立ちすくんでいた。これは、あれだ――クリスの妊娠を初めて聞かされたときに近い状態だ。
 侍女を手伝おうとしない弓使いを怪訝に思ったのだろう、クリスも心配そうな顔をしてそろそろと寄ってきた。そのとき初めて騎士団長にまで気を遣わせている自分自身に気がつき、ロランは慌てて足下に散乱している紙を拾った。

「も、申し訳ありません」
「もう、ロラン様ったら。驚きすぎですわ」

 情けないことに、紙を掴む手が震えている。衝撃が強すぎたようだ。いや、しかし無理もないだろう、彼女のあんな姿を見てしまえば……
 全てを集め終えるまで、ロランは顔を上げることができなかった。侍女から「順番は後で直してくださいまし」と紙の束を渡され、もうあとは立ち上がることしか残っていないのに、ひざまずいたまま、その場でうつむいていた。面を上げる勇気が出ない。
 だが「大丈夫か」というクリスの気遣う声が聞こえた途端、ロランは勢いよく腰を上げて彼女を見据えた。
 ――ああ。
 夢ではなかった。

「ロラン……ご、ごめんなさい。驚かせてしまったようで」

 少し離れた場所に立つクリスはおろおろした様子でロランを見つめている。やはりまずかったかなあ……と泣きそうな顔で侍女に尋ね、侍女にきびきびと「これくらいのことでいちいち驚かれては男が廃ります」と突っ返されている。いや、これで驚かないはずがなかろうとロランは胸中で反論した。

「クリス、さま……」

 クリスの髪がばっさりとなくなっているのである。

「お、御髪が……」

 自分でも情けないほど声が掠れている。
 クリスはロランの視線を避けるように、落ち込んだ様子でうつむいた。肩の上で切り揃えられたまっすぐな銀髪がさらりと前に流れる。
 ロランは、別に責めているわけではないのだと伝えたくて、ぎこちない足取りで前へと進んだ。侍女がてきぱきとテーブルの上のティーセットを片づけて台所のある奥の部屋に入っていくのを横目に、クリスの前に立ち、彼女をぼんやりと見下ろす。
 ああ。
 やはり、腰まで流れていたはずの髪が、ない。

「あ……あの、ごめんなさい、勝手に切ってしまって」

 おどおどとした、完全に自信をなくしてしまっている声である。かなりダメージを受けている恋人の様子に、ロランは慌てた。

「いえ、よいのです。クリス様、責めているのではありません。ただ驚いただけです」

 今度は、本当?と不安そうな瞳で見上げてくる。おそるおそる手を伸ばし、手袋越しではあるが髪にさらりと触れると、クリスはパッと顔を伏せてもじもじと恥ずかしがる態度をとった。

「ロラン、あ、あのね、これには理由があるんだ」
「理由……ですか?」
「うん。あれを昨日作っていたの」

 クリスは踵を返し、部屋のソファまで近づいてかがみ込むと、何かを手に取って再びロランのところに戻ってきた。
 これ、と見せているのは、銀の糸で編まれた、ランチョンマット程度の大きさの厚布だった。まさか……と思っていると案の定、これは自分の髪で編んだのだとクリスは説明した。

「ラステアに……あ、さっきの侍女の名前な。おまじないを教えてもらったんだ」
「お、おまじないですか?」

 彼女はてっきりそういったたぐいのものは信じない方だと思っていたのだが。ロランも然りである。
 クリスは手に持っている銀のマットを見つめながら、少し嬉しそうな声を出した。

「うん。赤ちゃんが無事に生まれますように、無事に育ちますようにっていうおまじないなんだって。ゼクセンの女性たちならみんな知っているらしいよ」
「そうですのよ」

 奥の部屋から新しいティーセットをトレイに載せて持ってきた侍女が続けた。

「出産のときは髪が邪魔になるでしょう? だからそれまでに髪を切って、その髪を編んでこういう布地を作るんですのよ。用意したゆりかごの中に置いておくの。子どもを産んで、ゆりかごの中で眠るようになったら布団の下に敷いて無事の成長を祈るんです。まあ、願掛けみたいなものですわね」

 自分も子どもを産むときに同じ事をしたんだという侍女に、ロランは納得し始めた。その話を聞いてクリスも彼女と同様にやってみようと思うことは自然なことだろう。確かに腰まで流れている長い髪は出産の際に邪魔になる。
 しかし切らずとも結わえればそれで済むのではないか……と口に出すことはさすがに芸がないので、そうですかとロランは素直に頷いた。

「それでは、私がゆりかごの用意をしておきましょう」
「あらロラン様、いいんですのよ。ゆりかごはサロメ様が用意するというお話ですから」

 なぜそこで軍師の名が出てくるのだとロランは立ちくらみを覚えたが、未だ大事な女性を妊娠させた弓使いに対して冷たくあたる男である、下手に反発すると倍返しも考えられなくはないため、それはありがたい……と消え入りそうな声で呟いた。

「それでは、私は何をいたしましょう……」
「あ、いいんだ、ロラン。ごめんな、気を遣わせるつもりじゃなかったんだ。単に私が皆を真似て、まじないをしてみたかっただけで」
「ですが……そのために御髪を切ってしまわれて良かったのですか? まじないを否定しているわけではなく、その……」
「ロラン様は髪の長いクリス様が大好きでしたものね」

 カチャカチャと食器を並べている侍女のいたずらっぽい声が聞こえ、ロランは少し顔を赤くした。クリスは特に驚きもせず、そうなんだよな……とうっすら苦笑している。

「ロランが私の髪を気に入ってくれたことは知っているし、ロランは出張で不在だったから、切るときには本当に悩んだんだけど、赤ちゃんが無事に生まれて欲しいっていう気持ちの方が強くてな。紋章を宿していても髪はゆっくりだが伸びるみたいだし、ロランが長いのが良ければまた伸ばすから」
「ああ……クリス様」

 ロランは急に切なさを覚えてクリスの頬に手を当てる仕草をした(ささくれのできている革の手袋で撫でるのに抵抗があったからだ)。

「お腹の子を大事に思ってくださっているのですね……」
「ええ? 当たり前だろう。お前との間の赤ん坊だぞ。お前が喜ぶ顔を早く見たいんだからな」
「私も何かできることをしましょう。子どもがいる騎士たちから色々と学んでおきます。父親としてできることは全てしたい」
「あらあ、頼りがいがありますわねえ」

 いちゃつく二人へのからかい半分の、だが嬉しそうな侍女の言葉に、クリスもまた頬を赤らめてこくんと頷いた。ロランはいつでも頼りがいがあるんだぞと自慢げに言いながら、自分のふくらんだ腹を無意識だろうがゆっくりと撫でている。彼女のその仕草を見るのが、ロランはとても好きだった。

「クリス様」

 呼びかけると、銀の髪を揺らして振り向く。なあに?と首をかしげるクリスを愛おしげに見つめ、

「髪、とても可愛らしくて、お似合いです」

 素直な気持ちを告げる。クリスはポッと顔を赤くし、ありがとう……と口元をむずむずさせながら照れくさそうに微笑した。
 二人のやりとりを見て「仲がよろしいですわねえ」と溜息混じりにひやかしてくる侍女の言葉に、そういえば侍女がいたのだったとロランもまた頬を染めてうつむいた。