クリスの部屋に入ると、ソファに座っているクリスと近くに佇んでいるサロメの姿があった。クリスは自分の腹を撫でながら歩み寄ってくるエルフを心配そうに眺め、サロメも無言でロランの様子をうかがっていた。
ロランはクリスの前まで来ると、その場に深くひざまずいた。
「クリス様。大変申し訳ございません、あなたのお心を乱すようなことになってしまい」
仮に当事者でなくとも、先ほどのエルフの怒声はショッキングな出来事だろう。騎士たちも相当困惑していたし、途中で消えたクリスは大丈夫かと心配している男たちもいた。様子を見に来たところ軍師が一緒だったのでホッとしたが、未だ彼女の表情は不安に満ちている。それが申し訳なかった。
「あれは私の実の妹です。エルフの集落から私を連れ戻しに来たということでした」
「もう顔を上げて、ロラン」
気を遣うクリスの声が聞こえてきて、ロランはうつむいたまま苦々しげに眉を寄せた。
「申し訳、ございません……」
「ロラン郷、あなたは悪くないのです。きっと誰も悪くないのですよ、彼女も彼女なりの言い分があってここまで来たのですから」
「そうだぞ。それより妹君は大丈夫か?」
クリスの心配そうな問いに、ドロテのことは兵士たちが見送ったため問題ないと伝える。報告によれば、ドロテは散々追ってきた兵士たちに文句を吐き捨て、東の方へ旅立って行ったとのことだ。ロランの故郷である集落は、遥か遠い東方の森にある。もともと集落にいるエルフは人間のいる世界に降り立つことを極端に嫌うため、最短のルートを見つけてさっさと帰郷することだろう。そもそも自分を迎えるためにこんな遠くの地まで旅してきたこと自体が、ロランには未だ信じられないのであるが。
両親の様子や集落の知り合いたちのことが気にならないと言えば嘘になるが、もはや断ち切った過去だ。妹に何を言われても今更という感じだった。
顔を上げて欲しいと再度求められ、ロランはひざまずいたままでクリスを見た。彼女はうっすらと苦笑を浮かべつつ、少し前へ乗り出すとロランの頭を片手でそっと撫でた。
「一番傷ついているのは、きっとロランだ」
「……」
「私も、サロメも、他の騎士たちも大丈夫だ。私はお前のことを信頼しているし、エルフと人間のあいだにある溝は容易には埋まらない。それは仕方のないことだろうからな」
「……クリス様」
あんな言い方をされてしまえば、クリスも傷ついただろう。エルフが人間に対してどういった意識を持っているか、よりによってロランの身内から知らされてしまったのだ。
子どもをつくるということは、ただ単に二人の愛の結晶を生み出すということではない。生まれた瞬間に世界を構成する要素の一つになるということは、社会性からは決して逃れられないことを意味する。種族や家族、国籍、社会的な立場など、あらゆる条件の中に置かれ、多くのものと関わり合いながら人は生きなければならない。
子の父親である家系には頼ることができない、そもそも生まれくる子が祝福されていないという現実をクリスはドロテによって突きつけられてしまった。腹の中に宿る子を楽しみにしている彼女にとって、それはひどくつらい衝撃だったろう。
「どうか……お許しください」
どんなに謝っても謝りきれない。ロランは悪くないと二人は庇ってくれたが、あの罵声の数々に対するエルフ族としての責任は、兄であるロランにも少なからずある。自分は、エルフ族の現状をよく分かっていたのだ。種族全員がとまではいかないものの、大半のエルフが偏見にすらなる人間への蔑みを持っているということを知っていた。己の背景にある事実を認知していながら人間の女性と結ばれることが、同じ種族にとっては歓迎されないであろうことも分かっていたことだった。
初め、彼女を愛することにためらいがあった。それは騎士として彼女をたたえる畏敬の念から起こる遠慮や、婚姻関係を結べないゼクセン市民としての罪悪感から抱いていたものだが、それらと同じくらいロランの苦悩を占めていたのは、人間を愛することは同族から決して良い目では見られないだろうという強い不安だった。
心のどこかで、この恋愛はそう簡単にいかないだろうと分かっていたのに、それでもロランはクリスを愛することを諦められなかった。どうしてだろうか? 彼女を傷つけることを避けるために、彼女との愛から遠ざからなかったのは。
「もう二度と、このようなことは……」
「ロラン殿、もうよいのです」
エルフの苦渋の言葉を、溜息混じりでサロメが遮った。見やると、軍師は厳しいが誠実な瞳で、ひざまずくロランを見下ろしていた。
「ロラン殿は他のエルフとは違う、というような言葉は安易に使えません。あなたがエルフであることは紛れもない事実です。同じ種族として背負わなければならない罪はあるでしょう、人間の側だってそうです、それは先ほどの妹御が証明していました。エルフと人間の溝は深い。クリス様とエルフであるあなたが結ばれたことが、我ら二つの種族の壁を壊すかと言ったら、そんな易しいものでもない。あなたやクリス様がそう望んだとしても簡単に覆ることではありません。
――ただ、覚えていてください」
軍師は弓使いの前にしゃがみ込み、目線を同じ高さにして、厳かに言った。
「あなた方の子が、人間とエルフの間に生まれた子が、次の世代を担う存在であるということを。いつか二つの種族を揺り動かすようなきっかけになりうるかもしれないということを。それが良いことであるのか悪いことであるのか、今の時点では分かりません。きっと我々が生きている間には分からないことでしょう。
その未来に起こることは、子を生むあなたがた親の責任でもあり、これから生まれくる子自身の責任でもあります。生きるということはそういうことです。ロラン殿、あなたは二つの存在の合間にいる子の父親として、子を守り、次の時代へと導いていく責任があるのです」
その真摯なまなざしは、ロランの決心を確固なものにするのに充分だった。ロランは真剣な表情で応え、迷いなく頷いた。隣で聞いていたクリスもまた軍師の言葉を受け止めなければいけない母親である、彼女も力強く頷き、その覚悟を子にも伝えるかのように、両腕で自分の腹をそっと抱いていた。
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