シャスターデイジー 花言葉は「すべてを耐え忍ぶ、愛情」
クリスの妊娠した我らが子を守り抜きますとサロメに二人そろって真面目に報告したら、当たり前でしょうと半ば怒った様子のサロメに軽く引っぱたかれた。
今現在の法律では婚姻関係を結べないのに身ごもったという二人の反省度は半端ではなく、叩かれた頬(ロラン)と頭(クリス)を押さえて落ち込んでいると、サロメはやれやれといった様子でかぶりを振り、とりあえずまあ座れと彼の書斎のソファに促した。
「ゼクセン連邦の六騎士として君臨する我々には強みがあります。法など変えてしまえばいいのです」
正面に腰掛けながら言うサロメに、二人はきょとんとした。そんな恋人たちの表情を目の当たりにした保護者はうんざりした顔つきになり、「そんなアホみたいな表情をしないでください」と突き放す。ロランとクリスは顔を見合わせ、気を取り直してコホンと咳払いをした。
「法を、変えるのですか?」
後ろめたさがあるロランが戸惑いがちに尋ねる。サロメは、ソファの間にあるローテーブルのポットから三つのカップに紅茶を注ぎ始め、目も合わさずに頷いた。
「ええ。そう簡単にはいかないでしょうし、単に言ってみただけですが、幸い我々は一般市民とはまた違った地位に属する者です。ひとまず法律をどこかで読み替えられるか探ってみます。変えられそうなところがあればそれに焦点を当てて考えてみます」
「ありがたいが……私たちは婚姻関係を結ばなければならないのか?」
無いなら無いで、世間には咎められても事実婚のような有り体でも過ごせないことはないのではとクリスが申し出るが、サロメはあからさまに、お前は馬鹿かとでも言わんばかりの様子で盛大な溜息をついた。いつも穏和な軍師にしてはずいぶんと強気な姿勢だ。今回の出来事で散々悩まされてうんざりしているに違いない。
「もしそれが許されるのならばこんな紆余曲折せずにおめでとうございますと言いましたよ。
婚姻関係が欲しいのは世間体もそうですが、最大の理由はライトフェロー家の存続の危機だからです。今の状況ではお腹の子は正式な姓も爵位も頂くことができません。非嫡出子扱いです。そうしたらどうです、あなた方の御子、ライトフェロー家の御曹司であろうとも方が居たたまれない思いをすることになるのですよ」
「そ……そうか……」
「親権の他にも相続権の問題やら色々あるんです。世の中は案外複雑にできてるんです」
「うう……」
サロメの言葉に絶望を抱き、クリスは頭をくらくらさせながらうなだれた。子どもにはなんの罪も責任もないはずなのに、その生まれのせいで周囲からいじめられる様を想像して、思わず目に涙が浮かぶ。
「どうしよう……」
「とりあえず、まだ一年近くあります。法改定には長い時間がかかりますし、どうにかできるとは到底思えませんが、出産した後でも籍を入れられる環境になれば良いということです。
今はまだ見た目も分かりません。しかしこれから体調に出てきますし、妊娠をごまかすことにも限界があるでしょう」
「これは……公表した方が良いのでしょうか」
口元に手をあて、考え込みながらロランが呟く。これはクリスの妊娠が発覚してから二人が考え続けていたことだが、騎士や民たちに何もかもを公にして人々から事実への承認をもらうか、それとも感づかれるのまで待っていざ説明を求められたら正直に話すかのどちらがいいか、いまいち判断がつかないところだった。たとえ別の男の子だとごまかしたとしても、たとえば生まれた子の髪の色や耳の形が男から受け継いだものであれば、相手はロランだと分かってしまう。嘘をつくのはリスクが高すぎるし、良いことなど一つもない。
だからと言って真実を話しても、実のところエルフであるロランの評判はゼクセンの中でそれほど良いものではなく、周囲はなかなか受け入れがたいだろうという心配があった。世間には自他共に厳しい冷たい騎士という印象が先行しているらしく、弓使いとして強いのは認めるものの、騎士たちの中では取っつきにくい男だと直々に悪口を言われたこともある。そのときは全く気にしていなかったが、伴侶がいる今となっては一つの悩みの種となり、にょきにょきと芽を出し始めていた。
紅茶のカップを二人に差し出しつつ、軍師はロランの問いにきっぱりと答えた。
「公表はしません。自然に噂が広まるのを待ちます」
その理由を二人が視線で求めると、彼は自身のカップを取り上げ一口飲んでから続けた。
「批判の瞬間は多くなればなるほどいけないのです。人間というものは悪いものを長く引きずる傾向にあります。
ばれるのは時間の問題ですが、周囲にとっても妊娠をやむを得ない、取り返しのつかないことにして有無を言わさないのが最善の方法です。週数を稼ぎ、堕胎させることが罪になるところまで引っ張りましょう。さすがに栄光ある騎士団長の御子を堕ろしてしまえとまでは民たちも言わないでしょうから。せいぜい後先考えずに何をしているんだと呆れられるだけです。まあ、爵位が関わるので、貴族たちの間でどう見られるのかは何とも言えませんが。
問われても嘘はつかず、正直に言うこと。もとより噂になっていたあなた方なのですから、皆が全く予測してなかったことではないでしょう」
滞ることなく言い放っていく軍師、もといクリスの保護者、もとい二人の義父のような立場の男に、二人は恐縮して沈黙するしかなかった。これだけ苛々しているサロメをクリスでさえ初めて見る。
全く紅茶に口を付けられない二人に気付き、サロメは、とりあえずここで止めましょうと小さく息をついた。
「どうぞ、一服してください。私も少し落ち着きたい……あなた方を責めているのには違いありませんが、これでも味方になりたいと思っているのです」
「それは……よく分かる」
ぼそりとした呟きに対し、当たり前ですと一言で突き返してくるサロメにクリスは泣きたくなった。ひとまず出された紅茶に口をつけ、隣に座っているロランを見ると、彼もまた深刻そうな顔をしながら茶を口に含み、ごくりと喉仏を動かして飲み下している。
カップを戻しつつ、クリスは訊いた。
「ボルスたちには言ってもいいかな?」
「かまいません。六騎士とルイスにも味方になってもらいます。ただ、まあ……ボルス卿が聞いたら卒倒するかもしれませんがね。レオ殿は楽観的なのである意味安心ですが、口止めはしておきませんとな。彼らには私から伝えておきます」
ぎこちなく微笑してありがとうとクリスが礼を言うが、サロメは淡々とした面持ちで紅茶を口に運び、いいえと短く返事をするだけだった。
「法云々は別にして、クリス様自身は、これからが大変なんですよ」
分かってる?とでも言いたげなサロメに、クリスは目をしばたたかせる。
「大変?」
「つわりが始まります。もう五週は超しているのでそろそろでしょう」
「つわりって……あの、何を食べても気持ち悪いっていう?」
今まで騎士としてしか生きてこなかったクリスは、母親が早くに亡くなったこともあり、女性に起こりうる常識というものをあまりよく知らなかった。せいぜい邸の管理を任せている女性の使用人や、髪結いをしてくれる侍女と話す程度で、男ばかりがひしめいているブラス城では女と話す機会すらほとんど無いのだ。
サロメはこっくりと頷いた。
「つわりが無いという者もまれにいるようですが、実際なったら執務どころではなくなります。食べ物を受け付けないために体力も体重も減少するし、剣を持って出撃なんてもってのほかです」
「そ、そうか」
「つわり中であっても、ある程度、できることはして頂きますが、無理をしてお腹の子に危険が及ぶことだけは避けなければなりません。ですから絶対、何があっても、クリス様は無理しないでください。何かあれば必ず私かロラン殿に言うこと」
「わ、分かった。無理はしないし、何かあったら二人に言う」
復唱するクリスに、サロメは瞼を閉じて軽く目元を片手で押さえ、なぜかふっと息を吐き出して笑った。今までの会話の流れの中に全く笑う要素がなかったので、二人は首をかしげる。
「サロメ?」
「いえ……すみません。なんだか嬉しいやらむかつくやら腹立たしいやら可笑しいやらで訳が分からなくなってしまって……」
気を取り直すためか深呼吸をしたのち、サロメは腰を上げた。
「私はサヴァンスト殿に用事があるので席を外します。今日はここまでにしましょう。もう夕食時ですし、あとはご自由になさってください」
気力がそがれてしまったのか、どこかやつれた面持ちでサロメは部屋の中をのろのろと歩き、寂しい背中を向けて扉から出て行った。
静まり返ったサロメの書斎に残されたクリスとロランは、しばらく部屋の主が消えた方を眺めていたが、二人で顔を見合わせ、サロメがそうしたように長い溜息をついた。
「なんだか疲れたな……」
「ええ。クリス様、申し訳ありません。私の……」
私のせいで、とロランは消え入りそうな声で言った。相変わらずの無表情だが、伏せた目は悲しげだ。
クリスは苦笑してかぶりを振り、控えめにロランの肩にこつんと頭を寄せる。
「どうして謝る。私はとっても幸せなんだ」
だってここに我々の子がいるのだからとクリスは腹を撫でる。ロランは感慨深そうにクリスの手元を眺め、優しい、穏やかな目で恋人に――母になるであろう女性に視線を移した。
そして、彼は微笑する。表現に乏しい弓使いの精一杯なのかもしれないが、この上なく幸せそうな面持ちに、クリスは何だか泣きそうになって、同じくふんわりと笑みを浮かべた。
「ロラン。
絶対に生んでみせるよ。何があっても」
たとえ誰に非難されようとも、罵られようとも、愛しい人との子を失う悲しみに比べれば、その痛みなど大したことはない。
ロランは頷き、クリスの額にそっと口付けた。じんわりと広がっていく幸福感に、クリスはうっとりして目を閉じる。
「私があなたを守ります。何があっても」
彼の大きな手が頬を撫でてくる。そのむずがゆさに、クリスはくすくすと笑った。
ようやく、二人は喜びに笑うことができたのだ。
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