クニフォフィア   花言葉は「恋するつらさ、あなたを思うと胸が痛む」





「暇を頂こうかと思うんです」

 クリスは顔を上げた。右手は羽ペンを持ち、左手は開いた法典を抑えたままで。
 目の前にいる濃い色の髪の男は、口元にわずかな、どこかぎこちなくも見える笑みを浮かべ、クリスを上から見つめていた。机の前に座っている上司に対し、部下はその卓上を挟んで立っている。

「暇」

 一言で聞き返すと、部下はこくりと頷いた。

「イクセの家から呼び出しがありましてね。家庭の事情ですが、しばらくのあいだ俺に戻って欲しいということです」
「家庭の事情ね。一応私はお前の上司だ。理由を聞く権利はあると思うのだが」

 無表情のままクリスが促す。部下は、薄く笑んで目を伏せた。

「母が倒れました。かなり症状が重いらしくて帰らざるを得ません」
「母君が」
「ええ。以前から体調が良くなかったのですが、病床の母を看ていた父も、とうとう参ってしまったみたいです」

 まるで今日食堂で食べたメニューが何だったかを話しているかのような平然とした口調に、だんだんとクリスは怒りを覚え始めた。ペン先を瓶の中に置き、少し身を乗り出して、細めた目で男を見る。

「なぜ、今まで黙っていた」

 部下は顔を上げ、クリスを見つめ返した。悪びれた様子もなく肩をすくめる。

「黙っていたというよりは、おおっぴらにしたくなかっただけですよ。仮にも内輪の話なので」
「騎士団長である私になぜ話さなかったと訊いている」
「だって話したら私に気を遣うでしょう、あなたは」

 休めだの実家に戻れなど言われたくなかったんですよと、彼は淡々と言った。視線を横にずらして口を閉じた男をクリスはじっと見つめていたが、椅子の背もたれに寄りかかってうなだれた。

「感心しないな。いきなり暇をくれと言うのは」
「あなた以外の騎士たち何人かには事情を話したんですけどね」

 間髪入れず、挑発的な口調で部下は返した。自分だけ除け者になっていたと知ったクリスは激昂したが、ふと、他の騎士たちも知っていてクリスに話さなかったということは自分もまた気を遣われているのだと冷静になり、喉まで出ていた説教を押しとどめ、ごまかすために細く長い息を吐いた。
 額に指先を当て、ゆるくかぶりを振る。

「……そうか。パーシヴァル、気付いてやれなくてすまなかった」
「いえ。俺も黙っていて申し訳ありませんでした」

 パーシヴァルは相変わらず冷淡だった。それはいっそ残酷なほどに。
 いつからだろうか、パーシヴァルとは以前よりも話さなくなっていた。話術が巧みでいろんな事に器用なところがクリスは好きだったし、以前は冗談を交わし会ったりしてウィットに富んだ会話を楽しんでいたのだが、最近はめっきりその機会も減ってしまっていた。仕事で関わり合う時も、すれ違う時も、どこか不自然に、冷たく、ぎこちなく社交辞令を交わすだけになっていて、おそらくそれは、クリスとロランの仲をパーシヴァルに疑われた時から始まったのだろう――と思いつつも、挽回する手立てをクリスを持っていなかった。
 二人の間にあるこの重苦しい空気を、果たしてどうすればよいのだろうか。だんだんと憂鬱な気持ちになり、仕事中の卓上を意味もなく睨めつけた。

「……」
「俺は、あなたの許可無しには無期限の休暇を頂くことができません」

 言われ、クリスは眉間にしわを寄せて目を閉じた。

「……そうだな。許そう。引き継ぎはできているのか」
「ええ。最近はあまり忙しくありませんからね。他の騎士たちには申し訳ないですが仕事を割り振らせて頂きました。
 まだ決定はしていませんが、現在事務のサヴァンスト殿が俺の代役を務める可能性が出てきています」
「それも初耳だな」

 どうしてあの親友でさえ自分に話してくれなかったのだと、クリスは落ち込んだ。それほどゼクセン騎士団長には信頼が無く、部下たちからなめられているというのだろうか。
 おそらく皆がパーシヴァルに口止めされていたのだろうということは分かる。騎士団長に話したくても話せなかった輩がいるであろうことも。つまり、自分はこの男から信頼されていないのだ。

「まあ……いい。事情は了解したから、書類を用意しておいてくれ。休暇願だな。手当金は、介護休暇の場合は支給の対象にならんぞ」
「ええ、存じています。幸いサヴァンスト殿は人事課だし、色々と訊いておきますよ」
「今更だが、残念だよ」

 言いながらクリスは立ち上がり、窓際に向かうと、ガラスを通して意味もなく夕方の空を眺めた。この男との間にある緊張と向き合うことがストレスで、彼の視線や冷たい口調からどうにかして遠ざかりたかった。
 長らくの寂があった。外の景色を見ているが、クリスの頭の中は混乱と落胆でいっぱいになっていた。誉れ高き六騎士といわれた男が騎士団を脱退する、しかもそれを自分以外には以前から話していた、そして仲間たちは自分にそのことを秘密にしていた……騎士団長としてのプライドはズタズタにされていた。感情的な女だからか? 卑屈な考えまで出てきてしまう。しかし、このように動揺していること自体が自分の非力さを証明しているのだ。言い訳をしようにも、逃れようがなかった。
 そのとき急に背後に気配を感じ、振り返ろうとした刹那、身体が両腕にとらわれた。その後すぐに耳元に人間の息がかかる生温かさを覚え、クリスは全身をこわばらせて戦慄した。
 後ろから男に抱きしめられているらしい。

「クリス様」

 低く、まるで冗談を含んでいない声音で囁かれ、震えが走った。

「俺はね――クリス様」

 両腕ごとかなり強い力で固定されてしまっているため、反撃しようにも身動きが取れない。それに、今は窓の近くに立っており、可能性は低いだろうが下手すると下を行き交っている兵士たちに見られるかもしれなかった。男相手に暴れている様子を目撃されたら、騎士団長の御身に何がと誰かが駆けつけてくるに決まっている。それだけは避けなければならないという一瞬の判断が、クリスの抵抗を阻ませた。
 一体この男は何を考えているのだ。
 蒼白になりながら、クリスは唸るように言う。

「何事だ、パーシヴァル」
「俺は、あなたがずっと好きだったんですよ」

 月並みな台詞で申し訳ありませんがと意味の分からない言い訳をされる。
 驚きと言うよりは絶望感に眩暈を覚え、クリスはかたく目を閉じた。

「今も好きなんですよ。あなたが、あの方と愛し合っている、今もね」

 ひょうひょうと放たれてはいるものの、その物言いの中に怒りや憎悪を混じっているのを感じ取り、無闇に反論してはならないとクリスは自戒した。ただ、もし、あの弓使いに関わる重大な、負の言葉がもたらされた時には、自らに課したこの禁止を解こうと決心しながら。
 パーシヴァルは抱きしめる力を緩めず、おそらくわざと、クリスの耳に息がかかるようにして続けた。

「なぜ、なぜ、なぜ……俺は繰り返しました。どうして、なにゆえにあの男があなたを、と。別に否定しているわけではありませんよ。ただ疑問なのです、ひたすらに。俺はあなたが欲しかったのです、一人の女性としてあなたを愛していたから。
 先を越されたと言われたらそれまでです。俺は出遅れた。でも、心の中で違和感を抱いていたんです。なぜ俺が先越されるのかと。俺は、ちまたでは軟派な男として世間体が悪いようですからね。でも、それが自分のプライドになっていた節があるのも事実だ。どうして俺が、本気で愛した女性を取り逃すような真似をしたのか?」

 自問している男の片手が、ロングベスト越しに脇腹を撫でてくる。耳元の温かさに含めて恐ろしさを抱き、クリスは思わず顔を背けた。それを追うようにしてパーシヴァルは顔を近づけてくる。

「俺は予測しました。つまり、先に動いたのはロラン殿ではなかったのだと。
 クリス様。彼に近づいたのは、あなたの方なのですね」

 あなたが先に、彼と一緒にいることを求めたのだ。
 冷ややかな口調にどこか蔑視が含まれている気がして、クリスに小さな怒りが生まれた。男の腕を振り払いたいが、この力の込められ具合ではいくら剛力な自分でも難しい。
 油断したとクリスは奥歯を噛んだ。周囲の者たちがクリスという女をどう見ているのかは知れないし、もしかしたら色恋沙汰には鈍感でどうしようもない人間だと思われているのかもしれないが、パーシヴァルが自分を好いているのではということは、実は以前から何となく分かっていた。
 あの時からだ。同じ六騎士という立場にある弓使いと仲良くなることに対し、それは体裁上よくないことではないかと烈火の騎士と詰め寄られた、あの時から。クリスを問い詰めた疾風の騎士の目は本気だった。本気でクリスとロラン、すなわち愛し合っている男女を憎んでいる目をしていた。その瞬間、クリスは、自分はこの男に愛されているのかもしれないと悟ったのだ。

「……」
「けれど、もはや、どちらでもいいんです。結果的にあなた方は愛し合っていて、今更俺が出る幕はない。俺は、あなた方を心から祝うべきなんですよ、あなたの同僚として、あなたを愛するからこそ。
 でもね……クリス様」

 手のひらが、意味深に腰回りや腹を這い回っている。ぞくぞくと奇妙な感覚が足裏や背中に生まれ、クリスは、寝床の上の愛しい男の手の感触を思い出し、たまらず身じろいだ。逃がすまいとパーシヴァルは更に腕に力を込め、耳元で、

「それでも俺はあなたを今も愛しているんですよ」

 笑いながら言った。ぞっとして身を翻すと、パーシヴァルは易々と両手からクリスを解放し、数歩下がってその場に佇んだ。
 暗い、深い絶望を宿した両目が、クリスを虚ろに見つめている。どう考えても幸福な感情の中にはいない者の目だ。悲しみや憎しみを激しく露呈することを封じ、泥のように遺恨の感情を秘めている人間の姿だ。
 自分もまた、ロランに拒まれ、彼が別の人と愛し合っていたのならば、嫉妬や悔恨のあまりこう成り果てていたのだろう。それを哀れだと感じることは、この男にとって最大の屈辱となるはずだ。
 クリスは目を伏せた。

「……ならば、私は言葉を返そう」

 なぜ。
 愛というものは、こんなにも重たい?

「私は、お前が私を愛するよりも早く、彼が私を愛するよりも早く、あの弓使いを想っていたよ」

 床を見つめているため、自分の言葉にパーシヴァルの表情がどう変化したのかは分からない。だが、この沈鬱な静寂が良い兆しもたらすとは到底思えず、状況がこれ以上悪化しないよう、ただひたすらクリスは祈っていた。
 しばらくして、男が溜息をつくのが聞こえた。

「クリス様。
 俺は、ロラン殿のことが、けっこう好きなんですよ」

 先ほどと打って変わった明るい口調に、クリスは奇妙さを感じて顔を上げた。そこには、いつものいたずらっぽい微笑を浮かべている疾風の騎士の姿がある。
 彼は肩をすくめ、気取ったポーズを取った。

「たぶん、六騎士の中では、俺が一番あの方の事情を知っているんです。彼の過去だとか、たった一人故郷を離れ、どれだけの苦労をしてゼクセンで生きてきたのかとか、六騎士まで上り詰めた経緯だとかをね……」

 ロランがパーシヴァルに身の上話をしていたということを意外だと感じつつも、今は弓使いへの興味を示してはいけないと思い、クリスは相づちもせずパーシヴァルの言葉を聞いていた。
 まったく反応しようとしないクリスに彼はふふっと笑い、

「俺も努力型の人間ですから、弓使い殿とは共通する部分が多いのです。共感は好感に繋がる良い例だ。
 だから本当はこじれさせたくないんですよ。あなた方に嫌われたくもないのでね」

 パーシヴァルは頭を下げた。それでは失礼しますと何事もなかったかのように普段の調子で振る舞い、彼は背を向けて部屋を出て行った。
 閉じられたドアを眺め、クリスはしばらく佇んだのち、ソファまでのろのろと歩くと、そこに力無く腰掛けた。
 ふかふかした背もたれに寄りかかり、天井を見上げてゆっくりと深呼吸をする。

「……難しいな」

 難しい。恋愛とは、本当に難しいものだ。
 この言葉は簡素すぎて無責任ではあるものの、これら一連の出来事を示す全てであるように感じられた。
 先ほどまで仕事をしていたこともあり疲労してきた思考を一度閉じるために、クリスは瞼を下げて暗闇の中へと逃げた。