スモークツリー   花言葉は「憂い、はかない青春」





 クリスとの仲を隠すことに、そろそろ限界が来ているだろうとロランは思っていた。
 クリスの部屋で仕事をする機会も増え、出張時や休みに一緒に外出することも多くなったことは、恋人という関係にある当事者たちにとっては何よりの幸せだが、それまで関わり合いすらなかった男女が急接近していれば決定的な証拠となっても仕方がなかった。
 ロランは味方が少ないわけではないし、サロメやレオ、ルイスも、騎士団長がそれでいいのならばとクリス本位に考えてくれている。しかし、その他の六騎士――クリスを慕っているらしいボルスとパーシヴァルや、騎士団長に畏敬の念を払う年頃の騎士たちにとっては、気高き銀の乙女をただの女に転落させる上司のスキャンダルを心地よいものと思うはずがない。ロランの部下からも、遠巻きにひそひそと話をされることが多くなっている。
 それは悲しいことだと思いつつも、元より、そういった状況は改善できようのない人間の性であり、周囲の目が気になるという臆病な理由でクリスを手放すなどさらさらないロランは、普段通りの平静かつ冷淡な態度で日々の仕事に臨んでいた。自分はよいのだ、誰に傷つけられても、軽蔑されても、自分の中にある彼女への想いという揺るぎない信念がある限り、中傷などさして問題にならないのだから。恐れているのは、無垢なクリスに、よからぬ態度を取る輩が出てくることだった。
 現に、彼女も陰で色々言われているらしく、寝酒の席で落ち込んでいることがあった。そのたびサロメやロランが気にすることはないとなだめている。こういうとき、ロランは思慮深い有能な軍師に心底感謝をしていた。自分よりもクリスのことを理解している男に嫉妬を覚えないわけではないが、結局のところ、サロメはクリスが良ければそれでいい人間なのだ。それが自分たちにとって良い方向へ働くならば、これ以上に心強いことはなかった。

 その日の業務を終え、自室に戻るために宿舎の廊下を歩いていると、自分の部屋がある階の通路でボルスが待ち伏せをしていた。鎧姿のまま神妙な顔つきで壁に寄りかかり腕を組んでいた彼は、戻ってきた弓使いの姿を見るなり身を起こし、近づいてきた。
 この男の部屋はひとつ下の階なのだがと思いつつ立ち止まると、ボルスもロランの前で歩みを止め、無表情で顔を見上げた。彼はクリスとほぼ同じ身長で、ロランの長身を恨めしく思っているらしく、視線が合うたびに無条件で気にくわなそうな顔をされるのだが、こればかりは両者どうにも解決することはできない。
 金髪の騎士は単刀直入に言った。

「クリス様のことで話がある」

 この単純明快さはいっそ好感が持てるほどだ。駆け引きを楽しんだりあれこれ遠回しに詮索する人間とはまるでかけ離れている男の性格は、ロランの気に入っていた。

「なんでしょうか」

 ロランは感情のない顔で彼を見下ろし、尋ねる。ボルスは周囲を見回してから、ここでは話しづらいと声を潜めた。

「できれば人のいない場所がいいんだが」
「では私の部屋にいたしましょう」

 すぐそこですから、と今佇んでいる場所から二つ先の扉を指差す。ボルスは示された先を目で追い、こくりと頷いた。





「パーシヴァルが騎士団を抜ける」

 部屋の椅子に座ったボルスから放たれた第一声はそれだった。
 ベッドの上で少し乱れていた毛布を畳み直していたロランは腰を屈めたまま停止し、目を丸くして顔だけボルスに向けた。彼は両手を膝の上に置き、険しい表情でロランを眺めている。

「抜ける?」
「ああ」

 感情的になりやすいボルスの落ちついている様子からすると、パーシヴァル脱退の宣告をされたのは今し方というわけではないらしい。畳んだ毛布を片づけてから、ベッドの脇に腰掛ける。
 男性宿舎の各部屋はとても狭く簡素で、ベッドと机があるだけで窮屈に感じられるほどだ。更にロランの部屋では背の高い薄い本棚を出入り口付近に置いているため、導線である通路が余計に狭まっていた。長身なエルフにとって人間の暮らす部屋はミニチュアのようで、気の毒に思ったらしいサロメが部屋の移動を提案してくれたが、かろうじて出入り口の外枠に頭はぶつけないし、ベッドに自分の縦幅が入りきるので問題ないと断った。皆も同じ条件でこの宿舎に住んでいるのだからという、ゼクセン騎士団員としての妙なプライドがあったのだ。
 ボルスは、ベッドの斜め向かいにある机とセットの椅子に座っている。ロランが落ちついたのを見計らい、淡々とした様子で説明し始めた。

「以前から話はあったんだ、おれ以外には黙っていたみたいだが。じきにクリス様に申し出ると言っていたから、公表されるのも近いうちだと思う」
「どうして辞められるのですか?」

 騎士団員としての誇りを持つロランには、六騎士という重要な立場にある者が脱退することなど到底考えられなかった。騎士が騎士団を抜けるのは死ぬ時だけだと思っているからだ。
 ロランの問いかけに、ボルスはうーんと顔を渋くした。

「辞職というよりは、無期限の休職ってやつかな」
「無期限の休職?」
「ああ。家庭の事情というやつだ」

 どうやら疾風の騎士は、騎士団で一番仲の良いボルスには詳しい話をしているようだ。私情であるならば深入りすべきではないと、ロランは単純に「そうですか」と頷いた。

「非常に残念ですね。とても有能な方なのに」
「イクセに戻るんだが、緊急事態が起きれば駆けつけてくれると思う。完全な引退ではないみたいだな」
「代替の者を置くのでしょうか。彼ほどの実力がある者がいるとは思えませんが」
「いないとは言い切れないんじゃないか。ほら、クリス様と妙に仲の良い男がいただろう」

 サヴァなんとかいうやつ、とボルスが呟くのを聞いて、ロランはかつて寝酒に同席した変わった男性のことを思い出す。クリスと士官学校時代から親しいという、槍使いの小柄で美人な、ロランにとってはやや性格に難ありの男だ。武芸における彼の実力ついてはロランは戦っているところを見たことがないので知らないが、相当な腕を持つという噂はしばしば城内で耳にしたことがある。現在は騎士団の事務仕事に就いているため表舞台には出てこないものの、いざ戦争ともなれば槍を振りかざして前線に立つほどの力があるかもしれない。
 パーシヴァルの性格を砕けた感じにした厄介な男が六騎士の仲間入りを果たすのだとしたら、これはまた妙な人間関係が生まれそうだとげんなりしてきて、メンバーチェンジについて思い描くのはひとまずやめることにした。

「それで――クリス様についてのお話だったと思いますが」

 気を取り直して尋ねると、何か考え事をしていたらしいボルスはハッとしてロランに焦点を合わせた。

「あ、ああ。まあ、大体予想はできてると思うが、ロラン殿は、クリス様と付き合っているんだよな?」

 恋人という間柄を示す際によく“付き合っている”という表現を聞くが、具体的にどういう意味か分からずロランは首を傾けた。

「さあ……」
「さあ、って」

 途端にボルスは眉をつり上げ、

「ばれていないとでも思ってるのか?」

 放っておけば大声を出しそうな調子で低く唸る。自室で暴れるのは勘弁してくれと願いつつ、そういうわけではないとロランはゆるくかぶりを振った。

「付き合うという言葉の意味が分からないだけです」
「い、意味? そ、それは」

 今度は赤くなっている。いちいち忙しい男だ。

「そっ、そんなの、言わなくても当事者なんだから分かるだろう!」
「私は人間の常識というものを存じてません。具体的にどういったことを指すのですか」

 もう長らくゼクセンの民として生きているため、人間としての生活には慣れ切っている。クリス曰く「エルフのくせに冗談が分かるようになった」こともあり、今の問いかけは半ばボルスに対するいじわるだった。
 しかしポーカーフェイスで単調に喋るエルフの男を烈火の騎士はまるで疑いもせず、それはだな……とますます頬を紅潮させ、視線をうろうろさせている。

「そ、その、まあ、色々あるだろう!」
「色々ですか?」
「色々だ! 恋人同士というのなら、することも色々あるだろうという意味だ」

 あまり詮索されても困るので、この程度にしておこうとロランはボルスの言い分に頷いた。

「まあ、今更隠そうとするのは、むしろみっともないことになるでしょうし、“付き合っている”ように見えるのならば、ボルス卿が想像しているようなことが我々二人の間に起こっていると思ってくださってかまわないのではないでしょうか」

 回りくどく、しかも決定的なことは避けて述べる。ボルスは怪訝そうに眉を上げて「あんたはそればっかりだな」と小さく溜息をついた。

「おれは、クリス様がいいならそれでいいんだ。ロラン殿と一緒で、クリス様が幸せならばな。
 でもおれはパーシヴァルを応援していた身だから、そう簡単におめでとうとは言ってやれないんだ」

 再び疾風の騎士の名が出たため、もしかしてクリスと彼の間に何かあったのではないかとロランは急に不安になった。

「パーシヴァル殿、ですか?」
「ああ。あんただって分かってると思うけど、パーシヴァルはクリス様のことがずっと好きだったんだよ」

 おれが言っていいのか分からないが、もう言ってしまったし……と無責任なことをぶつぶつと呟いている。
 ロランは、ボルスがボルスのくせに妙に冷静な態度でいることを不審に思った。自分のイメージからすると、彼はもっと激情的でうるさく、猪のように単純な男だったのだが、これまでの様子からすると彼はかなりの客観性を持っている。クリスのことになると毎度大騒ぎしていたはずなのに一体何事だ、熱でもあるのかと思いを巡らせ、ふと気が付いた。
 自分が知っているのは、クリスの前で慌ただしく表情を変えたり感情を剥き出しにしたりする烈火の剣士だけだ。ボルス個人のことを、実はロランはあまり知らなかった。彼は事務に向いていないので仕事を一緒にする機会も少なく、扱っている武器も違うので訓練で関わり合うこともそれほど無いし、真面目なところは共通しているが気が合うというわけでもないので食事や飲みを共にすることもほとんど無い。普段、六騎士が集まるときにようやく顔を会わせる程度だった。
 もしかしたら、ボルスはクリスの前になると上がってしまうタイプなのかもしれない。だからわたわたとしている彼の姿しか思い浮かばないのだろう。考えてみれば、彼は仮にも戦争において誰よりも前線を突っ走り、騎士たちを導く最高峰の騎士なのだ。実際のボルスという男は、ロランが想像するよりもずっと理知的で利口な男なのではないだろうか。
 眉をひそめてぐるぐる考えている弓使いを妙に思ったのか、聞いているのかとボルスが不満そうに咎めてきた。ロランはハッとして謝る。

「失礼を。色々考えるところがありまして」
「パーシヴァルのことか。ロラン卿はてっきりご存じなのかと思ったんだが」

 考えていたのはその話ではなくお前のことなのだがと思いつつも、口には出さない。

「存じていませんでした」
「そうか。まあ、だからこそロラン殿とクリス様がそういう関係になっているんだろうけどな。言っておくが、パーシヴァルは陰でクリス様にごり押ししてたんだぞ? でもクリス様はまったく気付かず手応えがなくて、脈無しと落ち込んでいたところにあんたがクリス様と仲良くなり始めたんだ」

 初耳だった。前々からパーシヴァルがクリスを気に懸けていたことは分かっていたし、頻繁にアプローチらしきものをしていたことも見聞きしていて知っていたが、もともと軟派な気質な彼のことであるから本気でやっているとは思わなかったのだ。それはロランのみならず他の騎士たちも同じふうに感じていたことだろう。
 その騎士たちの中に当のクリスも混じっていたのならば疾風の騎士を心底気の毒に思う。

「すみません、本当に私は知りませんでした。それに……」

 自分からクリスにアプローチしたわけではなく、クリスから告白めいたことをしてきたのだと言いかけて、咄嗟に呑み込んだ。おそらく騎士たちはその逆が真相だと思っている――クリスという美しき孤高なる銀の乙女が、そうそう男などに気軽に色香を振りまく女などと信じたくはなくて。下手に自分を弁護すればクリスに災難が降ってくるかもしれない。
 それに?と聞き返してくるボルスに、ロランは、いえ、と首を横に振った。

「パーシヴァル殿はなんと言っておられるのですか」
「そりゃ、気にくわないって思うだろうさ。おれもそうだ。初めの頃は、なんで大して仲良くもなかったロラン殿といい感じになってるんだと憤りを感じたし」
「あの、先ほどから疑問なのですが、ボルス殿もクリス様を好いておられるのではないのですか?」

 普段からクリス様クリス様と大騒ぎしている男である。
 だが、ボルスは問いに慌てもせずひょいと肩をすくめた。

「好きだけど、おれはパーシヴァルを応援している身だからな」

 あっさりと言ってくれる。面食らってロランが見つめ返していると、彼は困ったように薄く微笑した。

「仲のいい奴が本気で好きでいる女性を、横から奪うような真似はおれにはできない。戦うつもりもないからな」
「そうなのですか。少し意外でした。私はてっきり」
「いや、だから、好きだけど、それよりも大事なことがあるんだよ」

 分からないかなあ?と不思議そうに聞き返され、内心でロランは「分かりかねる」と返しつつも、それを口に出してしまったらすごく嫌な人間になると危惧し、そういうものかもしれないですねと無難な回答をしておいた。
 しかし猪突猛進と名高い烈火の騎士の意外な一面を見られたことは非常に興味深い。彼とはいずれじっくり話してみたいと思う。

「結局、あなたが私にしたかった問いというのは、それですか? 私がクリス様と恋仲にあるかどうかという」

 最初の設問に戻す。ボルスは、ああそういえばその話だったとのらりくらり反応した。

「まあ、結論から言うと、おれはクリス様が幸せならそれでいいんだ。ただ、パーシヴァルも飄々としているように見えてかなり傷ついているし、あんたとの噂がはびこるたび落ち込んでたんだからな。それだけは分かっていて欲しい」
「分かりました」

 事務的に、ロランは了解した。パーシヴァルには悪いと思うし、客観で見ても気の毒だとは思うが、絶対に謝ることはしない。誰を選ぶかはクリスの自由で、それが恋愛の在り方であるし、可哀想だの申し訳ないだの思うことは彼のクリスへの気持ちを侮辱することになる。
 問題なのは、今からパーシヴァルがクリスに対しアプローチしてくることだ。クリスは人の恋慕に対しては鈍感だが他人の傷に対しては非常に敏感である――それは彼女の欠点であり美徳なのだが。もし、ボルスの言うパーシヴァルの“傷ついた心”がクリスの前で体現されたら、繊細な彼女が罪悪感を抱かないはずがない。もちろんそれで気持ちがぶれるようなことはないと思うが、パーシヴァルという男は元々仮面をかぶっていて中身の読めない人間だし、この親友の話を聞く限り、彼もロランと同じく愛への執着が強い性質のように感じられる。六騎士の中では最も警戒すべき対象だった。
 疾風の騎士脱退という事柄はクリスの激しい動揺を生み出すだろう。彼女の気持ちが揺れ動く瞬間が、まさしく危険なのだ。

「もうじき、なのですね。彼が抜けるのは」
「ああ」

 寂しいけどな、とボルスは悲しげに笑う。長いあいだ一緒に過ごしてきた相方がいなくなる寂しさは計り知れない。

「でも、会おうと思えばすぐ会えるさ。あいつもちょくちょく顔を出してくれるみたいだし」
「そうですか」
「今度、公表されたらみんなで送別会をしようと思うんだ。あんまり大々的にするなって言われてるから、おれたちとかあいつの仲のいい奴を集めて」
「いいですね」
「ロランもな」

 「何かパーシヴァルが驚きそうなものを用意しておけよ」とおどけた様子で目配せされ、ロランはうっすら苦笑した。自分はそういうことにてんで向いてないというのに。
 話はそれだけだったらしく、ボルスは部屋を出て行った。ベッドに座っていたロランは立ち上がり、ベッド下の収納から普段着を出して着替え始める。
 あの風のごとき剣士が騎士団から抜けるのは、正直惜しい。彼は努力をして平民から六騎士という立場まで上りつめた実力派の男だ。ロランも自分の故郷を捨てゼクセン市民となり、実力で騎士団に入団した身であり、彼とはわずかばかり境遇が共通している部分があった。その点では向こうも親近感を覚えているようで、二人で思い出話や苦労話もしたことがあり、実はロランの生い立ちについて詳しく知っているのは騎士団ではパーシヴァルだけだった。
 仲間がいなくなるという喪失感。これからじわじわとロランや他の騎士たちの心に迫り来るのだろう。

「……残念だな」

 シャツに腕を通しながら壁を見つめ、ぼんやりとロランは呟いた。