マルベリー   花言葉は「ともに死のう、あなたが死んだら生きながらえはしない」





 ついうっかり、は彼には通用しないのだと、その日クリスは深く反省した。
 ついうっかりとしか言いようがないのだ。寝酒に来たロランが部屋のドアをノックしたと思い、クリスが戸を開けると、そこには日中部屋の門番を務めている兵士が立っており、クリスが食堂から帰ってきた際に落としたハンカチを届けに来たという。黒のワンピース姿にストールを羽織っただけの騎士団長に兵士は驚いたらしいが、ハンカチを渡すとすぐに帰っていった。
 その後、ロランが酒を飲みに来て、先ほど兵士がハンカチを届けに来たのだが、お前かと思って出たから少しびっくりしたよと軽い調子で話したら、急に彼は恐い顔をしてクリスを睨めつけた。
 時すでに遅しである。クリスがハッと気が付いて弁解する前に、ロランは「その姿でお出になったのですか?」という疑問形ではなく「その姿でお出になったのですね」と低い声で唸った。

「そのように胸の開いた服で」

 ロランのお気に入りのワンピース姿だからこそ、今日は意気込んでこの服を選んだというのに、どうやら裏目に出てしまったらしい。見下ろすと、確かにそそるような谷間が黒い胸元から覗いていて、男が目撃したならばただならぬ思いを抱くかもしれないことも考えられた。
 だが、弓使いだけを愛する純真なクリスには、断じてそのつもりは無いのである。今日の姿は弓使いに愛でられるために用意したものであるし、今夜は事に及ぶと前もって分かっていたからこそ、このようにやや過激な服を身に纏っただけなのだ。全ては目の前にいるこの男のためだ。クリスは慌ててかぶりを振った。

「ち、違う。ショールは羽織っていたし、胸元は隠していたんだ。だから見られては」
「見られてはいない? たとえ胸が見えなくとも、そのように身体の線が出る服を目撃した男に何の衝動も湧かないとお思いですか?」

 丸テーブルの、クリスの斜め右に座っていたロランは持っていたワイングラスを置いて立ち上がった。まさかと青ざめるもつかの間、男は「本日は失礼します」と短く吐き捨てて出口の方へ向かおうとした。
 さすがのクリスも言い訳をきちんと聞こうとしない恋人に腹を立て、待て、と低い声で男を引き留めた。その語調に焦燥は無かっただろう――クリスは卑怯にも騎士団長としての自分を彼にぶつけたのだ。
 さっと席を立ち、ロランの背後に回ると、彼は立ち止まって振り返った。クリスを睨み付けるその形相は恐ろしい。

「何か」
「私がお前以外の男になびくと思うのか?」

 こちらも負けてはいられない。

「私が意図的に色目を使える女とでも? それほど不誠実な女であると? お前とこういったことで言い争いなどしたくないが、それほどまで信頼が無くなっているというのなら私も少し考えねばならん」
「クリス様」

 ロランは足早にクリスに近寄り、正面に立って見下ろした。その両目は冷たく、クリスを軽蔑しているかのようだった。

「あなたのご容姿がどれほどのものか、ご自身で理解していらっしゃらないのでしょう。誰もがうらやみ、賞賛し、手に入れたくなるほどの」
「馬鹿な……何を言っているんだ。私を神格化するのはやめろ」

 すると急にロランはクリスを抱きかかえ、そのままベッドの方へ行くとクリスをシーツの上に投げた。
 また始まったとクリスはカッとなって起き上がろうとしたが、覆い被さってきたロランに押さえつけられて身動きが取れなくなる。

「ロランっ」

 暴れるが、弓使いの腕力に抗えるはずがなかった。ロランはクリスの肩から素早く二本の紐を下ろすと、露わになった豊かな胸に何度も唇で吸いつき、舌で先端をなめ回した。ぞくぞくと妖しい痺れが背筋から這い上がってくる。
 やめてと何度か悲鳴を上げたが、誰が廊下を歩いているか知れないブラス城ではその抵抗も些細なものになってしまう。そうこうしているうちに大きな手が太ももを撫で始め、これから事に及ぼうとする男の意思が感じ取れた。
 最初からそのつもりだったのでそれはよいとしても、気持ちが離れたままというのがクリスには不安だった。

「ロラン、ロランっ」

 無言でクリスの服を脱がす男に恐怖じみたものを覚え、彼の肩を手のひらで叩く。しかし男は行為をやめず、鎖骨を舌で撫でたり胸を揉みしだいたりと容赦がない。恐ろしさもあるが快感もあるという訳の分からない状況に、クリスは怯えた。

「やめてっ」

 どうか乱暴にしないでほしい。
 互いに傷つけ合うのはいやだ。

「謝る、私の行動が軽率だったことは……でもロラン、私は」

 不意にロランはクリスの両手首を掴み、シーツに押しつけると、上から顔を覗き込んだ。欲望からか彼の頬は少し上気していたが、その面持ちと瞳は普段通り冷静だった。
 クリスは戸惑いながら、先ほどの言葉を続けた。

「私は……その、ロランにしか……私自身を見せたくないんだ……」
「……クリス様」

 ロランは軽く頬にキスをし、苦々しげに眉を寄せると、クリスの頭をそっと撫でた。

「このような男など、嫌っても当然です」

 口調こそ淡々としていたものの、とんでもない言葉が男の口から出てきたことにクリスは瞠目し、何を言っている!?と声を上げてしまう。

「わ、私がお前を嫌うわけがない!」
「あなたに己の不安をぶつける最低な男です」
「馬鹿、そういうことを言うな。私が不安になるだろう?」

 もしかしてこれは別れ話に繋がるのではないかと、クリスは恐怖に襲われた。ロランはこめかみに何度か口づけ、身体の力を抜くとクリスの隣に身体を横たえた。
 何事だとクリスがそちらに身体を向き直す。ロランは顔を隠したがるようにクリスを長い腕で抱きしめ、胸元に閉じこめた。

「……ロラン?」
「……俺だけのものにしたいのです」

 それはいつもと変わりなく単調な言い方だったが、どこか苦しげに響いて、クリスは口を噤んだ。
 おそるおそる服を着たままの男の背中に腕を回す。彼の苦悩の正体を悟ったのだ。
 ロランは自分の放った言葉を悔いるように沈黙し、ますますクリスを抱きしめ、ああ、と小さな息を吐いた。

「申し訳ありません……しかし、ただ……
 俺は、あなたを欲しているのです。誰にも奪われたくないと、俺だけのものにしたいと、何者の目にも触れさせたくないと願っているのです……」

 それは、自分を蔑んでいる口調だった。
 クリスは急激に胸が軋む感じを覚え、ロランと同じく抱きしめる両腕に力を込めた。

 わかる。
 わかるよ。お前の気持ちが、私には。
 そう伝えるつもりだった。
 だが、どのように言葉にしてよいのか分からなかった。自分の語彙が乏しいせいかもしれない。
 ただ、その苦しみが私には分かるのだと。

「ロラン、大丈夫……」

 この思いを表すための方法が見つからない。しかし彼の心を理解しているのだと伝えなければならない。
 クリスはあやすように彼の背中をぽんぽんと撫で、その温かく広い胸元にそっと顔を埋めた。男もまたクリスの肌に手のひらを這わせ、自身を落ちつかせるように静かに深く呼吸している。
 愛する者を守るように愛撫する男の手つきは、本当に優しかった。泣きたくなるほどに。

 愛とは、なぜ、これほどまでに不安定でもの哀しく、温かく、優しいのだろう。
 この、はだけた胸も、身体も、声も、言葉も、愛情も、すべて彼に向けられ、彼のために存在しているのに、どうしていつも不安になるのだろう。
 自分も、彼も。
 なぜ伝えきれないのだろう。
 もし二人がひとつのものだったら、互いが心に抱いている気持ちが分かるのに。
 疑心などきっと生まれないのに。

 二人は少しのあいだ眠った。一つになりたいと互いが深く願っているかのように、抱き合ったまま、小さな眠りで孤独の恐怖から逃れていた。