「もう嫌だ、死にたい……」

 着替え、髪結い、メイクまで強制的に施されたクリスは、力無く床に座り込んでいた。ドレスが汚れるからソファに座ってくれと店主に注意されたが「知るか」と突っぱねた後のことである。
 自分の周囲の、恐ろしいほど可憐に広がった輝く白い布とオーガンジー。ドレスの出来映えは文句の付けどころなしに素晴らしい。胸元には丁寧に縫われた白バラの形のシルクがあしらわれ、首には繊細なパールのネックレスが下げられている(これは値段を聞いて卒倒しそうになった)。二の腕の途中まであるグローブは遠目から見るとただの白い布だが、近くで見ると白く光る糸で細かな刺繍が施されていて、どれだけの時間と技術が使われているのだろうと溜息が出てしまうほどだ。スカートが広がる腰はきゅっと締められているがきつすぎず、クリスの細い腰にしっとりと従っている。着心地はというと、正直抜群にいい。
 ああ……とかぶりを振る。すると、いつもと違う風に団子状にまとめられた銀髪に付けられた髪飾りが、しゃらしゃらと音を立てた。右耳の上には、白色でそろえた生花が丁寧に散りばめられている。展示品として作ったものなのに、なぜ本物の花まで持ってくるのだとクリスは呆れを通り越して感心してしまった。
 どう足掻いても自分は婚礼衣装を着ている。

「本気だな、あなたは」
「伊達に仕立て屋をやっておりませんわ」

 ほほほと自慢げに笑っている。侍女たちもクリスの婚礼姿に感動したらしく、頬をバラ色に染め、目を涙で潤ませて「お美しいですクリス様……!」という台詞をドレスを着る辺りから数十回繰り返していた。

「モデルとしての起用に、私の目に狂いは無かったというわけですわ。
 さてと。長らく待たせている男性陣を呼ばねばなりませんわね」

 平然と放たれた店主の台詞に、クリスは血の気の引いた顔を上げた。

「やめろ!」
「こんなに美しいクリス様を見たら、誉れ高き六騎士と呼ばれる殿方であろうときっとその場で卒倒されますわ。心臓が止まりますわよ」
「やめてくれ、私はもう脱ぐぞ!」
「あら、鏡の前で長い時間メイクと髪結いをしていた侍女さんたちの努力を水の泡にしますの?」

 ぴしゃりと言われ、クリスはうっと口を噤む。侍女たちはというと泣き出しそうな顔になって「脱がないでくださいぃ」と首を横に振っている。
 みなさん入ってきていいわよ!とドアの向こうに叫ぶ店主を見てクリスはすっくと立ち上がった。隠れる場所を探すが、店主の影響か強気になった侍女たちに両サイドから腕を押さえられ、身動きが取れなくなってしまう。一体この状況は何なのだ。
 「ずいぶん時間が掛かりましたねえ」というサロメの声とドアが開かれる音が聞こえてきて、クリスはたまらず瞼を閉じた。絶対に変だと言われるに決まっているのだ、似合わないと、服に負けていると、お前にそんな衣装を着る資格などないと……
 三人が中に入ってくる気配がする。その足音は、入り口付近でぴたりと止まった。
 しばしの無音である。

「……?」

 なぜ何も言葉を発しないのだろう、目を覆いたくなるほど絶望的だったのだろうかと、眉間にしわを寄せながらおそるおそる目を開ける。前方に見えたのは、三人が自分を見て硬直している姿だった。
 ああ、本当に彼らはショックだったのだ……と頭がくらくらする感じを覚えながら、クリスはうなだれた。侍女たちなど振り払ってしまえば簡単に抜け出せるが、この場から逃げる気力すら無くなってしまう。
 見られたくなかった。結婚もしていないのに、する気もないのに婚礼の衣装などを着ているところなど。しかも披露されている相手の中には、ロランがいるのだ、今や自分と恋仲にある人間が、予定も無しにこんな姿を見たとき、驚き以外の何の感情が芽生えるというのだろう。笑われるかもしれない、騎士団長が婚礼衣装など着て自分の立場をわきまえているのかと……

「……ロラン殿?」

 不意に、サロメの呼びかけ聞こえる。ロランに何かあったのか、もしかして気分が悪くて本当に倒れたかと慌てて面を上げて見やると、ロランは瞬時にクリスに背を向けた。
 ガンとすさまじい衝撃がクリスの頭の中を襲う。涙が出るかと思った。
 サロメは隣にいるロランの顔を見上げ、苦笑いを浮かべている。

「あの、クリス様が不安がりますよ」

 ロランは答えず、片手で口元を覆っているようだった。ルイスもロランを一瞥してから肩をすくめるとクリスにそそと近づき、上から下まで目線でドレスを追って、頬を赤らめて朗らかに笑う。

「お美しいです、クリス様! 驚きました。作られたのはウエディングドレスだったのですね」

 本当に嬉しそうな顔をして言うものだから、クリスは訝しんで眉を上げる。

「……気味が悪いと思わないのか?」
「はっ?」

 目を丸くして聞き返された。ルイスの後ろから、サロメが先ほどの苦笑を崩さないまま寄ってくる。

「クリス様。我々は、あなたの美しさに驚いて言葉が出なかったのですよ。私も正直、度肝を抜かれました。まさかクリス様のこのようなお姿を目にする日が来るとは……感無量と言いますか」

 まるで親のような気持ちになりますとサロメはしみじみ言う。いつお前が私の親になったのだと心で呟きつつ、侍女たちからようやく両腕を解放されたクリスは上目遣いでサロメに訊いた。

「愚かだと思わないのか」
「愚か? 何のことです。とんでもありません。きっとクリス様は騎士団云々と気にされているのでしょうが、今回はただの試着ですよ。大した意味はありませんし、深く考える必要もありません。ここまできちんと飾られていると、このまま式場に行ってもおかしくはないくらいですがね」
「でも」

 ロランは……と暗い気持ちで呟き、うつむく。先ほどからロランは会話に参加してこないし、向こうで背を向けたまま動こうとしていない。ゼクセン騎士団を愛する男には騎士団長の花嫁姿などあまりにショックで姿すら見たくないのではないのだろうか。
 しゅんとしていると、サロメがやれやれとクリスに近づき、顔を寄せて耳元で呟いた。

「ロラン殿は、顔を見られたくないのですよ」

 どういうことだとクリスは聞き返す。すると、ルイスがふふっといたずらっぽく笑った。

「顔が真っ赤だったんです。よく見てください、あの白い肌が耳の先まで」

 少年が振り返るのにつられて視線を移す。確かに、隠そうとしても隠せない長く白い両耳が朱色に色づいていて、よく見てみればうなじも真っ赤だ。
 未だ疑いは残るものの、もしかして二人の言い分は正しいのかもしれないと思い始め、クリスは、失礼、と一言おいてから前へと歩み出た。ルイスや、にやにやしている店主が道を空けてくれる――ついでに、この騒ぎは貴様のせいだからなと貴婦人に恨みの一瞥をやることを忘れない。
 おそるおそるロランから少し離れた場所まで歩き、立ち止まる。きっとクリスの行動にはヒールの音で気が付いているはずなのに、彼は振り返ろうとしない。
 未だ不安の拭い切れない心境で、クリスは口を開いた。

「ロラン……突然こんな姿ですまない。変だったかな」

 後ろの方から複数の呆れの溜息が聞こえたが、ひとまず無視する。ロランは小さく身動きし、ゆるゆると首を横に振った。

「……いいえ」
「変じゃないか」
「変では、ありません」

 いつもは凛然としている声が弱々しい。良い意味にしろ悪い意味にしろ、彼の心臓にはかなり悪影響だったようだ。負荷が掛かりすぎたせいで明日死んでしまったらどうしよう。
 申し訳ないことをした……と落ち込んでいるうちに、後ろの方でがさがさと音が聞こえた。何事かと思って振り返ると、店主と侍女二人、加えてサロメとルイスが総出で床に散らばったものを部屋の端によけていた。

「あ……も、もう脱ぐか?」
「いえ、一度我々は退出します」

 サロメの断言にクリスが「は?」と目を丸くしているうちに、彼らはそそくさと部屋の入り口まで行き、全員同じ顔でにこやかにクリスに笑いかけた。
 もしかしてこの状況下でロランと二人きりにされるのか、それだけは本当に勘弁してくれとクリスは青ざめて悲鳴を上げる。

「おい! あんまりだぞっ」
「クリス様申し訳ありません私はこれから仕事がありますゆえ」
「後で戻ってきますから! ねっ」
「おほほ、ここは愛する殿方と二人きりで未来のビジョンを描く絶好の機会ですわよ」

 未来のビジョンってなんだ!とクリスが慣れないヒールで駆け寄った瞬間、五人は部屋の外に出て思い切りドアを閉めた。伸ばされたクリスの手が虚しく閉じたドアの木目を撫でる。
 遠ざかっていく複数の足音を聞きながら、クリスは、身体は燃えるように熱いのに心は冷たいという複雑な感覚に襲われていた。背後の気配が重たく感じられ、気を失ってしまいそうなほど激しい鼓動が全身に鳴り響いている。
 どうしよう。
 彼と二人きりになれること自体は嬉しいのだ。しかし、現在の自分の格好が格好だ。
 婚礼姿。

「ああ!」

 たまらず、クリスは両手で顔を覆い、勢いよくその場にしゃがみ込んだ。反動で、ドアの前に敷いてあるマットのためにヒールの先がずるりと滑り、バランスを崩して思わず後ろ手をつく。
 ロランの、少し慌てた自分の名を呼ぶ声がする。彼はクリスの背後にしゃがみ込んだようだった。近づいた気配にますます緊張し、後ろについた手をのろのろと前まで持っていくと、激しく打つ心臓を落ち着つかせるために胸元をゆっくりと撫でつけた。
 深呼吸をし、口を開く。

「……ロラン。その……」

 すまないと言いかけたクリスの、右耳の上の髪に飾られた花々に、ロランの伸ばされた手が触れたのが視界の端で分かった。
 彼は花弁を軽く撫でたあと、クリスの耳元で揺れるピアスに、指先をかすかに触れさせる。
 より近づいた体温に、クリスは息を吐き、目を閉じた。気が狂いそうなほど恥ずかしくて、胸が詰まり、どうしようもない。

「……クリス様」

 低い声で、先ほどよりも近い位置から囁かれる。

「お美しいです」

 それは、ようやく言葉に出来たという、つらそうな口調だった。どうしてロランまでこんな苦しげな声を出すのだろうと不思議に思い、意を決して座り込んだまま彼に振り向く。
 ロランはクリスの後ろの立て膝をして、色白な頬を赤らめ、愛おしげにクリスを見つめていた。その深い黄金色の瞳があまりにも真摯すぎて、羞恥と恐ろしさで目をそらしたくなったが、どうにか耐える。

「こんなに……美しい、あなたを」

 混乱しているたどたどしい彼の言い方は、本当にロランのものなのだろうか。不安になって、クリスは訊いた。

「ロラン、大丈夫か」
「美しすぎて……このように見ることすら、畏れ多く感じます」

 まるでクリスを敬遠しているような言葉に、そんなことを言わないで欲しいとクリスはとっさにかぶりを振る。

「は、恥ずかしいけど、どうせ見られるなら、ロランに見られたかった」

 噛みながら言うと、ロランは苦々しげに目を伏せ、口元を片手で覆った。今の自分の言葉が嫌だったのかもしれない。クリスはだんだんと訳が分からなくなってきて、そっと弓使いに両手を伸ばした。
 彼はハッとしたように目を丸くし、首を横に振った。

「なりません」
「ど……どうして?」
「あまりにお美しくて……私などに触れては」

 これはもしかして、ロランの悪い傾向が出たらしい。
 クリスは目の前でうなだれる男に嫌悪感を抱き、唇を小さく尖らせた。
 今のロランは、クリスをクリスとして見ていない。しかもゼクセン騎士団長ですらなく、決して手の届かぬ天上の女神のごとき存在として敬っている。彼の中では、クリスが異常なまでに美化される一瞬があるらしいのだ。
 自分はそんなに清い人間などではないと何度も言っているだろうと、今度は無理矢理ロランの口を覆っている右手を剥がし取り、グローブをつけたままの両手でぎゅうと握りしめた。抵抗のため、クリス様、と苦しそうに吐き出された彼の呼びかけにも応じない。
 クリスは眉をひそめて要求する。

「ロラン。私に触れて」
「……」
「触れて。私は私だ」

 クリスの言わんとしていることは分かっているのだろうが、それでも彼はためらっていた。これではまるで別の女が目の前にいるようではないかと腹立たしい気持ちになり、ロラン!と怒りを込めて呼ぶ。するとロランは観念したのかクリスの両手の中にある手をぴくりと動かした。
 そっと両手を離すと、彼はその手でクリスの左手の指を軽く持ち、身を屈めてグローブ越しに小さく口付けをした。その仕草が、幼少の頃に読んだ童話の、王子様がお姫様に対してする行為のように見え、クリスは思わず顔を赤くした。自分で触れてくれとねだっておきながら、このざまだ。
 次にロランはその右手を伸ばし、クリスの頬に軽く指を滑らせた。触れるか触れないかという感触に、くすぐったさと切なさを覚え、目を伏せる。自分を見る彼の熱っぽい瞳にどうにも耐えられない。

「……」
「クリス様。私は、本当に嬉しいのです」

 指先をクリスの顎に這わせ、彼は感無量といった様子で言った。彼がここまで己の感動を表すのは滅多にないが、確か、以前クリスに功労を誉められたときにこんなふうな態度になった記憶がある。珍しかったため印象に残っていたのだ。彼は忠実ゆえに騎士団に従うことは当たり前だと思っていて、それがあえて取り上げられて賞賛されると、どうやら照れてしまうらしい。
 こいつは本当に可愛いよなあと、口に出すと訝しがられるので胸で思うだけにしておいた。

「このようなお姿のあなたを見ることができて」
「……わ……」

 びくびくしながら問うてみる。

「私は、きれい、かな?」

 顔を上げて見ると、ロランはクリスの言葉に驚いたのか数度瞬きし、相変わらず頬をほんのり染めたまま、ええ、と、嬉しそうに目元をほころばせ、微笑した。
 それは優しい笑みだった。

「きれいです」

 迷いなく言われ、クリスは嬉しさとむずがゆさでどうしようもなくなり、なぜか勢いよく立ち上がってしまった。今度は目の前にいるロランが高貴な人間にかしずいている騎士のような姿になり、ますます自分の状況を恥じてパニックになる。
 逃げるように少し身を引くと、ロランが立ち上がった。ぐんと彼の背が高くなる。

「もう少し、あなたを見つめていてもよいですか」

 失礼かもしれませんが……と彼は感嘆を押し殺せないといった調子でクリスに言う。
 最近思うのだが、もしかしてロランは天然のタラシなのではないだろうか。どんな女性であっても聞いたら狼狽してしまうほど気障で歯の浮くような台詞を、おそらく本人はまったく自覚無しに言っている。
 意図的に口に出す男よりもたちが悪い。クリスはぶんぶんとかぶりを振った。

「嫌だ。恥ずかしい……も、もう着替えたい」
「そんな、勿体ない」

 腕を伸ばし、指でするりとクリスの頬を撫でてくる。彼の本当に幸せそうな表情を見て、さっさとこんなドレス脱ぎたいと思いつつも、嬉しそうなロランをがっかりさせてしまったらと不安がっている自分がいた。
 そう考えるなんて相当うぬぼれていると、クリスはロランの懐にぱっと飛びついた。彼は鎧姿だったので顔を埋めることはできなかったが、鎧に額を軽く触れさせ、その場でうつむいた。

「クリス様?」

 彼は驚いた様子でいるものの、条件反射のように大きな手で背中をゆるゆると撫でてくる。素の背中を愛撫されるその心地良さに満足しつつ、少し得意になって言った。

「この位置なら、私の姿は見えない」

 すると苦笑混じりにロランが返す。

「それは残念ですね」
「なあ、ロラン」
「はい?」

 間近にいる彼を顔を上げて見やり、再び頬が熱を帯びるのを感じながらクリスは笑みを浮かべた。なんだろう?といったふうにロランが首を傾げる。
 なかなか勇気が出ずに口を閉じていたが、意を決して、

「好きな人に、きれいって言ってもらえるのは、嬉しいな」

 ようやく聞き取れる程度の声量で、ぼそりと言った。ロランは瞬きを数回繰り返し、そのうちクリスと同じく白い頬をほんのり色づかせ、困ったようにも見える表情でにこりと微笑んだ。
 こんな笑顔を見られるのは自分の特権なんだろうな。
 考えると嬉しくなって、鎧の上からロランに抱きつく。ふふ、という、彼の小さな声でさえ、クリスには甘く響いてどうしようもなかった。





 予定通り、マネキンクリスの婚礼衣装は店主に無事返却され、ゼクセの街角のショーウインドウに展示されることになったらしい。
 着る準備はかなりの時間がかかったが、剥がされる時はあっという間だった。その際、ドレスの参考価格はあるのかと聞いたところ、目玉が飛び出るほどの値段を言い渡され、散々床に座り込んでしまったことを素直に詫びた。すると店主は「いずれ買い取って頂きますわ」と、それはもう嫌味なほどにこやかに言った。
 試着した日の夜、三人の寝酒の席で、未だ何が起こったのかよく分からないと口を尖らせるクリスに、サロメはくすくすと笑う。

「でも、これで死んだ時の後悔がひとつ減りましたな、ロラン殿」
「まったくです」
「お前らはなんなんだ!」

 また泣くぞ!と言ってやると、それだけはどうか勘弁してくれと二人は苦笑した。