ブラックベリーリリー 花言葉は「個性美、誠実、高貴」
低く、静かな、まるで静寂な森の湖に広がる波紋を思わせる、そんな歌声だった。
ゆるゆると瞼を上げる。始めに視界に入ったものは見慣れたベッドの天蓋だった。
隣に人の気配があり、互いに素肌の肩がわずかに触れている。もし身体を少しでも動かせば、彼がその行為をやめてしまう気がして、クリスは開けた目を再び閉じ、耳を澄ませた。
彼の歌声を初めて聞いた。とても小さいが、低く、心地よい声だ。彼はきっとクリスが目覚めていることに気が付いていないのだろう、今まで一度もクリスの前で歌を口ずさんだことなどなかった。
それは聞き慣れない歌詞だった。クリスの知る外国語でもなかった。自分たちが普段喋っている言語とはまるで舌の使い方が違うようで、同じ発音をしようとしても難しくてクリスにはできないだろう。
雰囲気からして子守歌だろうか。ならば彼は子守をしたことがあるのだろうか。それとも彼の両親が子どもに歌って聞かせていた曲なのだろうか。どんなときに歌うものなのだろうか。
知りたい。
「ロラン」
名を呼ぶと、彼は息を呑んでぴたりと歌うのをやめた。少し――かなり惜しかったが、彼が何を想い、何のために歌うのかをクリスはどうしても知りたかった。
彼は小さく身じろぎして、少しはだけていたクリスの毛布を片手でのろのろと整えた。
「なんの、うた?」
目だけを向けて尋ねる。ロランもまた仰向けに寝ていて、クリスの問いに沈黙したのち、かすかな息を吐いた。
「……古い歌です」
「古い歌? この辺りに伝わるものではないよな」
「ええ」
私の故郷の歌ですからと彼は呟いた。
「古代エルフ語の歌です。私たちエルフが普段話している言葉とはまた違う言語の」
「そうなんだ」
「……いつから起きていらしたのですか」
気まずそうに溜息混じりで問われ、クリスはふふと小さく笑む。
「ついさっきだよ」
「申し訳ありませんでした。起こしてしまって」
「ううん、ロランの歌声を聞けて嬉しい。とてもきれいな声をしているんだな」
言いながら体を回転させてうつ伏せになり、ロランの顔をまじまじと眺める。彼はクリスの言葉に照れたのか、ふっと目をそらした。
クリスは微笑したまま指先でロランの柔らかな前髪を撫でる。
「もっと皆の前で歌えばいいのに。驚かれるぞ」
「得意というわけではないので」
「それで得意じゃないって言ったら私はどうなる。聞いた人間が卒倒したくなるほどの音痴らしいからな。お前みたいにまともに歌える奴がうらやましいよ」
ロランはクリスに視線を戻すと、両手をすっと差し出した。自分の身体を包もうとしているのだと気付き、クリスは這い寄ると彼の胸元に頭を預け、上半身を乗り上げる姿勢を取った。ロランの大きな二つの手が背中を優しく撫でてくれる。
彼のゆっくりと打つ心臓の音に目を閉じた。
「ロラン」
「はい」
「故郷に戻りたいと思ったことはあるか」
問いに、彼は沈黙した。
それは、クリスが予想していたよりずっと長い静寂だった。てっきり彼は即答するのかと思ったのだ、故郷を離れ、半ばエルフとしての身を捨ててゼクセンの市民権を得て俗世の人間になりたがった男なのだから。
少し複雑だなと考えて待つ。そのうち、彼は小さな声で答えた。
「ない、と言ったら嘘になります」
クリスの顔の位置からではロランの表情は分からない。その声は相変わらず淡々としていて、どんな感情を抱いているのかは判断つかなかった。
「ですが、戻ろうとは思いません」
「……そうか」
「エルフである己の血を変えることは生涯できませんが、私は今やゼクセンの民ですので」
この地に来て、エルフという種族として生きることをやめたのだと、彼は言った。
ロランの白く骨ばった肩を撫で、クリスは黙っていた。
今までロランの過去を聞き出したことはない。彼は、クリスが出会ったときにはすでにエルフの森を捨てゼクセンの民となっており、彼の経緯など関係のないものになっていた。
知りたいと思ったことは何度もある。だが聞き出すことはしなかった。ロランが話したくないかもしれない、故郷が恋しくなるかもしれないという不安からではなく、単に知る必要がなかったからだ。
彼は、クリスの部下であり、仲間であり、先輩であり、騎士だった。二人のつながりは、それで十分だと思っていた。
「きっと美しいのだろうな」
鎖骨をなぞると、そこが敏感なのかロランは肩をぴくりと動かしたが、抵抗はしない。
「はい?」
「エルフの生きる森だよ。背の高い住民がたくさんいて、風とか、湖とか、木の葉のさざめきとか、そういったものに囲まれて静かに生きている。そんな情景が目に浮かぶ」
「……」
「私は都会暮らしだからな」
石畳と煉瓦に囲まれて生きてきたんだ。
クリスの苦笑混じりの言葉を聞くロランは、無言で長い銀髪を撫でている。うっとりするような心地よさが頭から全身へと伝っていき、思わず瞼を閉じた。
「ん……ロラン」
「……クリス様。
私はもう、エルフたちには受け入れてもらえないでしょう」
それは先ほどと変わらず単調な台詞だったが、その中に、己への戒めと覚悟が含まれていて、クリスは悲しいような切ないような気持ちになった。故郷を彼方へと置き去りにしていったロランを受け入れる同族がいるとすれば、彼と同じく森を捨てた者たちだけなのだろう。
エルフは排他的な精神が強いという。ロランもまた排除のくくりに入ることになるのかもしれない。
もし自分があらゆる人間から遠巻きにされたらどうだろうか。同じ種族が、お前は同族などではないと軽蔑の言葉を放ったら。
それは本当につらいことだと、クリスはかすかに嘆息した。
「……ロラン」
「はい」
「私がいるよ」
彼の首元に片手を延ばし、ゆっくりと首筋を手のひらで愛撫する。彼が、いつも自分の髪にしてくれるのと同じように。
「私がずっとお前のそばにいるよ。ずっと、ずっと」
それは文字通り、おそらく裏切ることもなく、ずっとなのだ。
クリスの言葉に、ロランはクリスの身体を包む腕に強い力を込めた。耳元で自分の名を少し苦しげな呼ぶ声が聞こえ、クリスは彼を安心させるために肩や首に手を這わせた。
ああ、でも、せめてその歌は歌い続けてほしい。お前がお前であるために必要な歌なのだから。
クリスの願いに、彼は迷うことなく小さく頷いた。
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