静かになった部屋。二人の間に残されたものは重たい沈黙である。ロランは椅子に座り直し、クリスは居たたまれないのか身体を小さくしてうなだれている。白い肌が耳まで真っ赤になった有様は哀れなほどだったが、今回ばかりは甘い態度は取れないと自戒する。
 一向にクリスから話し出す気配はない。やむを得ないと、ロランは口を開いた。

「クリス様」

 びくりと彼女の肩が震える。

「あの者は」
「すまないっ」

 遮り、彼女はぎゅっと目を閉じて声を上げた。言い訳が始まるのだろう。ロランは背もたれに体重を預け、腿の上で両手を組んで聞く態勢に入った。

「で、でも、悪く思わないでくれ。サロメに相談できなかったらサヴァンに尋ねるしかなくて……ロランと話したくても話題が見つからない時とか、お前はあまり顔に出さないから私の言動をどう思われているのかとか、不安なときに相談してたんだ。あいつとは長い付き合いだから私のことをよく分かってる……私の短所もズバズバ言ってくれて、傷つくが、すごく為になる。ちょっと変わっているがものすごくいい奴なんだ。だからあいつのことを悪く思わないで欲しい。責めるなら私を責めてくれっ」

 滞ることなく勢いよく放たれていく彼女の言葉に、ロランは怒りというよりは呆れを抱く。クリスは更なる言い訳を探しているのか視線を頻繁に右往左往させていた。
 まだ続くらしいので口を閉じておく。

「その……サヴァンとは深いところまで気楽に話せるというか……そういうのにためらいがないというか。は、初体験の、話も……私はよく勝手が分からないし、そういう参考書であるわけでもないし、誰かが教えてくれるわけでもなかったから、もし、いざ、ロランとそういう雰囲気になった時にどうすればいいのか訊いたりしていたのは事実なんだ……も、申し訳ない」
「……クリス様」
「申し訳ないっ!! でもロランのことは一言も漏らしてない! あいつが勝手に予測するだけで……お前は他人に自分のことが知れることを嫌うから、私からは二人のことは言ってない!」

 真剣な眼差しを真っ直ぐに向けられる。ロランはしばらく黙っていたが、あまりにも懸命な彼女がだんだんと気の毒に思えてきて、小さな溜息をついた。

「クリス様……」

 呼びかけると再び彼女は身体を震わせ、すまない……と弱々しく頭を下げてくる。大勢の武人たちの前で士気を上げるために演壇に佇む騎士団長とは、似ても似つかない姿だ。
 もういいだろうとロランは気を取り直し、腰を上げ、クリスの側に静かに佇んだ。おそるおそる顔を上げてくる彼女に、ロランはうっすら苦笑してみせる。

「私には、あなたを、そしてサヴァンスト殿を責めることはできません」
「……?」

 どういう意味だろうというふうに、目に涙を浮かべてクリスは首をかしげた。潤んだ瞳が愛おしい。
 先ほどに比べれば胸中は穏やかなものの、口調は淡々として続けた。

「あなた方は私の知らない領域です。その領域で行われていることを私が咎めることなどできません」

 考えてもみれば、今更な話なのだ。二人はロランよりずっと前から友人同士であり、サヴァンストはゼクセンでは味方の少なかったクリスを守護する役目を負っていたように思える。頭の回転が速くあれだけ口が達者な人間だ、不器用なクリスが持たざる部分を彼が補っていたことは容易に想像できた。自分の話題が彼らの間にたびたび上っていたのだとしても、ロランの知り得ぬ時代から共にいた彼らをどうして責めることができよう。クリスにとって恋愛が大きな出来事ならば、その悩みを彼に打ち明けることなど当然のはずなのだ。

「ただ、私は……」

 ロランは目を伏せ、クリスから視線を外し、

「私は、仮にも男性であるあの方に、そういった……」

 言いづらくなり、そのまま言葉を止めてしまう。あまり本心を晒したくはないが、自分の苛立ちの原因は、きっとこれに違いなかった。
 しばらくの静寂のあと、何も言わないクリスが気になって見やる。彼女は、ロランをじっと見据え、泣くのを我慢するように唇を噛んでいた。

「……そうだよな」

 ゆるゆるとうなだれ、

「すまない。ロランにとっては、そうだ……」

 かすかな声音で、そう呟く。顔が見えなくなってしまい、ロランはその場に跪いてクリスを下から覗き込んだ。
 白くなめらかな彼女の頬に、一筋の涙が伝っているのが見える。

「不安だった。正直お前は何を考えているか分からんし……私は鈍いし、世間知らずな箱入りだし」

 おそらくサヴァンストが彼女につけた形容詞なのだろうが、かなりひどい。そこまで何でも言い合える間柄だという証明になろうが、あまり騎士団長が侮辱されることには慣れていないので少し腹立たしい気持ちにもなった。

「だから、その……
 ロランに嫌われたくなかったんだよ……」

 暗い表情で「それがすべてなんだ」と力無く呟く。
 ロランはクリスの悲しげな様子をしばし眺めていたが、腰を上げると彼女の後頭部にするりと片手を回し、そっと顔を近づけた。間近に迫り、クリスが驚いて瞬きする。
 ロランは無表情で言った。

「口付けをしていただけますか」
「く、口付け?」
「ええ、クリス様から」

 普段、こういったことに関しては専らロランがリードするため、クリスはかなり動揺したようだった。しかし、会話の流れからして自分が劣勢であることを考慮したのか、戸惑ったように瞳を微動させつつも、顔の角度を少し傾け、男の唇に小さくキスをした。
 すぐに離し、クリスは眉をハの字にさせる。

「……ロラン?」
「キスの仕方さえ」

 ロランは立ち上がると屈み込み、クリスの首筋にかすかに唇をあてた。

「サヴァンスト殿に習ったのですか?」
「そっ、そんなことはしていない!」

 急に低い声を上げ、クリスは否定した。こういう怒りを伴ったときだ、騎士団長の威厳と誇りが見え隠れする瞬間は。

「誓ってそんなことはしていない! そもそもあいつは中身が女なんだ、私をそういう対象としては見ていない」
「それでも私は悔しいのですよ」

 ロランもまた低く囁くと、クリスはハッとしたように身体をこわばらせ、口を閉じた。

「……」
「他にはどんなことを?」

 真っ直ぐな銀髪をゆっくりと撫でる。己の放つ言葉が嫉妬を含んでいるのは分かっていたが、どうにも止められなかった。
 クリスは小さく呻き、ロラン、と悲痛な声で自分の名を呼んだ。

「信じて欲しい……」
「信じていますよ。でも、ああすればいいこうすればいいとサヴァンスト殿のことを思い返しながら私の腕の中にいるというのは」

 さすがの私も許しかねます。
 鋭く言われたクリスは両手をロランの背中に回し、シャツをぎゅっと握りしめた。

「そんなこと……」

 囁きは弱々しい。
 彼女の身体を片腕で抱きかかえながら背筋を伸ばし、クリスを無理矢理に立たせた。強引さのある行動に不安げな目で見つめてくる彼女に、ロランはにこりと微笑みかける。

「今日は私の理性を欠かせてください。心乱され、だいぶ疲れてしまいました」
「ロラン? 大丈――」

 刹那、唇を塞ぎ、無理矢理にむさぼる。
 クリスは恐怖を感じたように全身をかたくしていたが、次第に熱を帯びてきた行為に力が抜けたらしく、砕けた腰が崩れ落ちないよう両手で必死にロランのシャツを掴んでいた。





 自分の上に載って髪を振り乱す彼女を見つめて問う。

「どこまでが、彼の作り上げたあなたなのでしょう」

 クリスは「違う」と言いたげに首を横に振るが、言葉にはできないようで、うつむいたり天を見上げたりして妖しげな荒い息を漏らすだけだった。ぐいと突き上げると悲鳴じみた声をあげて男の名を呼ぶ。
 ロラン、ロランと。
 そんな彼女の姿を見つめ、哀れみ、恋慕、悔恨、そして彼女を女にする己への軽蔑と満足を感じていた。
 今まで抱いたことがなかったあらやる情動が入り乱れることは決して心地よいものではないが、自らに眠る本能が呼び起こされ、それを目の当たりにすることは無知から脱することになるかもしれない。それこそ普段持つ理性の姿がはっきりと浮かび上がってくるはずだ。
 知りたくなかったわけではない。
 だが、知りたかったわけでもない。己の内側に、こんな純粋で痛烈な感情が眠っていることなど。
 自分のみだりな欲望が、彼女を騎士団長から女に引きずり下ろしてしまった。

「ロランっ」

 ゆるして、と唇が動いているのを見てロランは苦笑した。
 自分は何かを誤っているのかもしれない。それは本来、誤りではないはずなのだが、自分たち二人の間になると、そうなってしまう。
 本当は。

「……クリス様」

 本当は、自分などより、彼女のあの友人の男の方が。
 サロメの方が、ボルスの方が、パーシヴァルの方が、他の騎士たちの方が。

「クリス様」

 暗い感情が渦を巻く。
 ああ、銀の乙女よ、自分が持っているものは、騎士団への忠誠と、

「どこまでが、本当のあなたなのでしょうね」

 人よりも長い寿命だけだ。
 それでもクリスを手放す気などさらさらなかった。
 白い肌をほんのりと色づかせ、艶めかしく動く女の姿を眺めながら、先ほどまで彼女を独占していた男の影を今だけは忘れ去るよう願う自分に、ロランは密かに嘲笑を浮かべた。