リナリア   花言葉は「私の恋心に気付いて、乱れる乙女心」





「ロラン殿ですか? あの方はけっこうモテるんですよ」

 言われた言葉にクリスの身体、思考はもろとも停止し、え、と小さな声を上げ、仕事のため部屋の机と本棚の間を行き来しているサロメを見た。
 自分もまたブラス城の彼の書斎にこもって仕事をしていたのだが、座るための適所がないので、ここに来ると部屋の壁際にある二人掛けのソファに座ることを常としていた。しかも他に人目が無いときにはソファの上に寝っ転がりながら書類に目を通したりしている。
 本日も仰向けになって月次報告を眺めていて、サロメと他愛ない話をぽつりぽつりと交わしていた時、六騎士の恋愛遍歴の話題がのぼった。最初はクリスを持ち上げるために六騎士とルイスはクリス様にぞっこんですよとはぐらかしていたサロメだったが、真面目に答えろとクリスが言うと、少し話しづらそうにはしていたものの彼は自分の知りうる限りのことを教えてくれた。パーシヴァルやボルスは若いうえ見た目がああなので常日頃から女性たちに取り巻かれており、聞かなくても分かるので詳しくは触れなかったが、ロランの話になったときにサロメがそんなことを言い出したものだから、クリスは内心ぎくりとしてしまった。

「あいつがモテるのか?」
「……その問いには悪意がないと信じたいですが」

 呆れた様子で呟きながら、サロメは本棚から分厚い本を取り出し、ぱらぱらとめくっている。

「ロラン殿は口が堅い方ですし、自らそういった話はしない方なので、彼が一体誰とというのは私には分かりかねます。
 でも、あの長身と、冷静沈着で誠実そうなところが女性にとっては魅力的なのではないですか」
「……ふうん」
「よく手紙をもらったりしているみたいですよ。どちらかというと、パーシヴァル卿やボルス卿の周りにいるような積極的な女性ではなくて、控えめで落ち着いた女性から好かれているのではないかと思われますが」
「控えめで落ち着いた女性……」

 サロメから資料に視線を戻し、クリスはうわごとのように繰り返した。もはや文章の内容は頭に入ってこない。ロランがモテるという事実にかなりの衝撃を受けている自分がいる。
 ぼうっとしている間に、サロメが机の方に戻る足音が聞こえた。

「彼は話題が陰に隠れるタイプの方ですから、意外に恋愛上手かもしれませんね」
「……ロランは控えめで落ち着いた女性が好きなのだろうか」

 暗い声で呟くと、サロメがかすかに笑う声が聞こえてくる。クリスは顔の前から資料を退け、目を細めて彼を睨んだ。

「なぜ笑う」
「す、すみません」

 ごまかすようにゴホンと咳払いをし、彼は本を机に置いて椅子に腰掛けた。クリスも身を起こしてソファに座り、資料は持ったまま前屈みになって、ぼんやりと床を見つめた。なぜか頭がくらくらする。
 どうしてこんなに心が冷たくなっていく感じがするのだろう。別にロランがモテないと思っていたわけではないのだが、女性からの関心を集める男性なのだと知って複雑な思いを抱く自分がいる。一体なぜだろう、嫉妬なのだろうか。
 まさか自分が嫉妬など……と深く落ち込んでいると、サロメの気遣う声が聞こえてきた。

「ロラン殿がどんな女性を好くのかどうかは分かりませんが……もし気になるのならば本人に直に訊いてみるのがよろしいのでは?」
「でっ、でも」

 クリスはパッと顔を上げ、

「控えめな女性というのはそもそもそういった質問を直接するわけがなかろう」

 焦りを交えて言うと、サロメは笑い出しそうな口もとを片手で覆ってクリスから目をそらした。なぜ笑う!と憤慨して訊くが、今回は抑えきれなかったようで横を向いて顔を隠そうとしている。

「サロメ!」
「すみません。でもクリス様が可愛らしくて」

 とうとう吹き出している。いつも穏和で落ち着いているサロメがこのように笑うのは珍しい。
 まったく、とクリスは不満げに息をついて再び資料を持ち上げ、そこに目を落とした。
 仕事にならなかったのは言わずもがなである。





 その日の夜、ロランが寝酒を飲みにクリスの部屋にやってきた。燭台がぼんやりと灯る丸テーブルの前に座っているのは、部屋の持ち主とロランの二人だけだった。
 普段は寝る前にサロメと三人で飲んでいる。パーシヴァルは話術が巧みなので話し相手としては申し分がないが、彼が他の男性がいるのを厭がることでサロメが以前より警戒、却下しており、ボルスはクリスの前だと騒がしくなるので夜は遠慮して欲しいというのと、レオは寝る時間が早いためそもそも寝酒に来られないということでサロメとロランとクリスの三人が集まっている。だが、今日はサロメがクリスに気を遣ったらしく「お二人でごゆっくりどうぞ」とロランに伝言したようだった。
 なぜかサロメ殿は来ないのですが……という部屋に入ってきたロランの台詞を聞くなり、余計なことをとクリスは頭が痛くなったが、昼間の事情は言わず、ロランにホットワインを用意してやった。クリスも同じく温めたオレンジジュースで割ったホットワインを作って飲んでいる。
 通常、三人で寝酒を飲むときには大体一時間程度共に過ごしており、クリスが延々と喋り続けて他の二人がそれに頷くといったスタイルだった。しかし、今夜ばかりは話題がクリスの口をついてこず、二人で沈黙する時間が多かった。一体どうしたのだろうというロランの空気が痛いほど伝わってきて、気まずい思いでいっぱいになる。今回は早めに切り上げた方がよいのかもしれない。
 “もし気になるのならば本人に直に訊いてみるのがよろしいのでは?”。
 サロメの言葉が脳裏をよぎった。

「クリス様?」

 名を呼ばれ、クリスはのろのろと視線を上げた。ロランは首を小さく傾け、不安げな目でクリスを見つめている。

「あの……お加減がよろしくないのでは」
「あ、いや。そんなことはない」
「そうですか?」

 明らかに心配されている。気が晴れないという自分の事情で、来たばかりの彼を追い返すのも気の毒だ。
 己の性格上、このままはぐらかせる気もしないので、クリスは意を決してグラスをテーブルに置き、姿勢を正して口を開いた。

「あの、ロラン」
「? はい」
「率直に聞くが」

 クリスのただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ロランもグラスを置いて背筋を伸ばした。

「はい」
「その……ロランは……その……どういったじょ……女性……と」

 聞き取れないほど語尾が小さくなってしまい、少し顔を寄せたロランに「は?」と聞き返される。距離か近くなっては困るとクリスが背をそらすと、ロランは戸惑ったように瞬きした。身体を元の位置に戻している。

「失礼」
「え? あ、ご、ごめん、嫌だったわけじゃないんだ。
 その、ロランはさ……」

 再びまごついたが、腹を決めてロランを真正面から見据えた。

「女性と付き合ったことがあるか?」

 言葉に、ロランがぴしりと固まったのが分かった。同じくクリスを凝視し、瞳は微動すらしていない。
 しばらくその状態が続いたため、こいつ息はできているだろうかと徐々に心配になってきて「ロラン?」と手を振ったりしてみると、ハッとしたように彼は焦点を合わせた。

「あ……申し訳ありません」
「いや。大丈夫か?」
「ええ……」

 言いながら、どこか意識が朧な様子でグラスを持ち上げ、中身を口に含んでいる。眉間に深いしわが寄っており、ずいぶんと神妙な表情だ。
 クリスはそんなロランを不安になって見つめていたが、一向に質問に答える気配がないため、再度彼に問うた。

「ロラン。私のことは気にせず正直に答えてくれ」

 強い意志の含まれる声音に反応し、ロランは無表情に目線だけをクリスに向け、持っていたグラスをテーブルに置いた。

「あります」

 ぴしゃりと、平静な態度で言葉は放たれた。
 今度はクリスの身体が硬直する。どんな返答が来ても大丈夫だろうと心では思っていたが、実際に音声化され、予測が事実に変わるとショックが大きい。
 彼が別の女性と付き合っていた、他の誰かを愛していた……頭の中でぐるぐると渦を巻き、目の前が暗くなった。何を衝撃を受ける必要がある、彼だって年頃の立派な男性なのだ、過去に女性たちとそういった関係になることは当然だ、むしろ無いことの方が……過去?
 ハッとしてクリスを声を上げた。

「ロッ、ロラン! い、今は!?」

 クリスの焦燥に、ロランは、はい?とあからさまに困った顔をした。

「今は、特には。というより、いたとしたらおかしいでしょう」

 クリス様とこういった関係になっているのにと続くのだろうが、ロランは自制しているのかそこで言葉を止めた。クリスは、今は他に好きな人がいないということにホッとしたが、それでも危惧は拭いきれない。暗雲たれ込めた思考で、やっとの思いで返事をする。

「そ、そうか……」
「……あの」

 ロランから怪訝そうに、

「もしかしてサロメ殿に何か言われましたか?」

 半ば確信を持った様子で、そう問われた。クリスが返事もしないが否定もしなかったため、なるほどそういうことかというふうにロランは背もたれに体重を預け、大きく溜息をついた。

「気になさる必要はありません」
「気になるよ!」

 咄嗟に言う。ロランは驚いたらしく、目をしばたたかせた。

「クリス様?」
「……気になるよ」

 両手を太ももの上でぐっと握りしめ、クリスはうなだれた。

「昼間サロメに言われたんだ……お前は女性にモテる、と。見た目と性格から控えめで落ち着いている女性に好かれるのではないかと……いや、私も予測していなかったわけではない。むしろ我が六騎士が貴婦人たちの注目を浴びることは悪くないのだ、騎士団の威厳を守るためにも有利なことだと思う。私は女性騎士で一部のご婦人方にはあまりよく思われていないようだから、戦闘以外における男性陣のオプションは必要不可欠なものだ。しかし、あまりこう……なんだ……取り巻きに囲まれてもだな……
 ……ロラン?」

 いつもはしてくれる相づちが全く無いため、どうしたのだろうとおそるおそる伏せていた顔を上げる。すると、目の前の男は口を塞いで斜め下を向き、ふるふると震えていた。

「ロ……ロラン? どうした」
「……しっ……」

 何かをこらえているらしく、珍しく言葉を詰まらせている。一体どうしたと下から覗き込むようにしたが、厭がるように顔を背けられてしまった。その仕草に更なる絶望を覚え、クリスはぐっと唇を噛む。

「……お前……」

 じんわりと目に涙が浮かんだ。嫌だ、こんなことで……と悔しさに胸がいっぱいになったが、溢れ出した感情はどうやら止まりそうにない。もとより自分はプライベートとなると感情の露呈が激しい方だ。

「――お前は結局、私のことなんて!」

 椅子を蹴るようにしてガタンと立ち上がり、腹を立ててソファの方に向かうと、そこに俯せに転がり込んだ。ロランが追いかけてくるだろうと思っていたが、こちらに来る気配はなかった。高慢なことを考えた自分にますます嫌悪感を抱き、クリスは両腕に顔を伏せて溢れ出た涙を隠した。
 しばらく黙り込んでいると、不意に頭に何かが触れ、クリスはびくりと身体を震わせた。

「……クリス様」

 ひどく優しい声が降ってくる。こんな穏和な声音がまさかロランのものだとは思えず、少し顔をずらして横目で見やると、彼はソファの隣にしゃがみ込んでクリスの頭を撫でていた。
 やめろ、と奥歯を噛む。

「やめてくれ、今の私は醜い……」
「いいえ」

 否定のかぶりを振り、ロランは微笑を――クリスが初めて見る、本当に優しい微笑を――浮かべ、背中に流れる長髪を撫で続けた。

「可愛らしい」

 真っ直ぐに言われ、クリスは思わず顔を赤くした。普段の自分たちと形勢が逆転させられた気がして悔しく、片手をぱぱぱと振って彼の手をどける。
 ロランはふふと小さく笑い、クリスの頭を胸と腕で包むように軽く抱いた。彼からそんなことをしてくるとは思っておらず、ますます頬を紅潮させてロランに文句を言った。

「恥ずかしいからやめろっ」
「前にあなたが私にしたことですよ。
 クリス様、何を不安がる必要があります」

 ついでに前髪を撫でられ、クリスの目からなぜか涙がこぼれ落ちた。
 どうしてだろう、こんなにも歯がゆいのに、心が満たされていくのは。

「言ったはずです、私はあなたの傍らにいると」
「……」
「こんなにも美しく純朴な女性に好かれ、嬉しくないと思う男がいますか」

 穏やかに言われ、クリスは感動に心震わせる。普段は冷淡なこの男が、内には秘めているとはいえ温かな一面をこんなふうに自分に見せてくれるとは正直思っていなかった。
 ロラン、と身を起こして彼にすがりつく。彼はしなやかな長い両腕でクリスを包むと、頭に頬を寄せてくれた。そんな彼の行動にどきどきしながら、クリスはくぐもった声で訊く。

「……ロランは私のことが好きなのか」
「どう思いますか?」
「問いに問いで返すな。おっ、お前はモテるらしいからな、別に私でなくてもいいんだ。私も目を見張るような可憐なご婦人方はたくさんいる。お前みたいな長身の男はそうそういないし、性格も冷静で、たぶん女性のことを真摯に愛してくれる。もし他の女性から告白などされたら、私のことなど気にせず」
「私を怒らせたいのですか?」

 急に彼が剣呑な調子になったため、ハッとして口を噤んだ。クリスが自分自身を卑下することは、ロランのプライドも同時に傷つけることになるのだ。
 違う、と慌てて首を横に振った。

「そ、その、つ、つまりだな、私はお前を縛りたくはないと……」
「もう良いのです」

 再びぽんぽんとクリスの頭を愛撫してくる。彼の、その信じられないほどの優しい仕草に、クリスは涙がこらえきれなくなってロランの胸に顔を押しつけた。なぜ泣くのかも分からない。けれど、愛と愛が触れ合う感覚というのはきっとこれなのだろうと、そのときクリスはなんとなく悟った。
 二人は、無言のまましばらくそうしていた。ロランはクリスを緩く抱き、クリスはロランのシャツを両手で握りしめて涙を隠して。
 こうしている間にも彼の時は過ぎ去っているというのに。
 ロランへの強い愛慕に、苦しいほど胸が痛む。いつかこの男は自分を置いていってしまうのだろうか? 彼の方が年上なのに、それでもなお彼は自分より先に逝くのだろうか。未来を憂うと切なさと悲しみでいっぱいになるが、杞憂であって欲しいと、クリスはただ願った。いつかは杞憂は真実となってしまうのに、それでもまだ、互いが悲しむことのない未来を夢見ていた。