ブバルディア   花言葉は「不屈の精神、愛の誠実、情熱」





 正直なところ、面倒くさい輩が来た、とロランは思った。
 食堂で遅めの夕食を取っていたときのことだ。その日はゼクセに用件があったのだが、予想以上に現地での仕事が延びてしまい、やっとブラス城に帰ってこられたのは皆がすでに寝ている時間帯だった。顔なじみの給仕に、遅くなるかもしれないから自分用に夕飯を取っておいて欲しいと頼んでおいたのは正解で、誰もいない薄暗い食堂の奥のテーブルに今日のメイン料理だったと思われるトマトのリゾットが置いてあり、「ロラン卿用」という給仕のメモ書きも添えてあった。
 テーブルに燭台を置き、ありがたく思いながら夕刊を片手にリゾット食べていたとき、廊下の方から複数の足音が聞こえ、その人物たちはなぜか今の時間帯は用がないであろう食堂の扉を開けた。こんな夜遅くに何事だとロランが振り返ると、そこには見覚えのある――もはや顔を見飽きるほど一緒にいる――軽装のボルスとパーシヴァルの姿があり、瞬時に嫌な予感を抱いた。
 二人の目的はやはり自分だったようで、ずかずかと近づいて「食事中に失礼」とあまりそうは思っていない調子で一言おいてから、右隣にはパーシヴァル、長テーブルを挟んで正面にはボルスが座った。
 まさしくこの位置が二人の性格をよく表していると、新聞を畳みながらロランは溜息をつく。

「……何か」
「率直に訊きたい」

 明らかに敵意を抱いている様子で、ボルスが言った。ロランは皿にスプーンを置き、何をですか、と淡々と答える。これは面倒なことになりそうだ。
 ボルスは両の手のひらをテーブルにつき、身をずいと乗り出してロランに顔を近づけた。火に浮かび上がるその表情は険しい。

「近頃、貴殿の我が騎士団長と共に仕事をする機会が多くなったと思われるのだが」
「はあ」
「それはクリス様直々のご依頼によるものなのか」

 馬鹿丁寧に訊いてくるのは、この後に彼の烈火的な部分が爆発するからであろうか。
 ここで下手な態度を取ると彼らの疑惑を助長することになりかねない。食い入るように見つめてくるボルスの両目をロランもまた睨み、強気の姿勢を作った。

「そうだが」
「そうなのか?」
「先の決戦ののち、ブラス城、ゼクセ、ビュッデヒュッケ城をひっきりなしにサロメ殿が動き回っていることを貴殿もご存じであろう。到底ひとりでは処理しきれぬ彼の卓上の仕事を引き受けることは以前から私の役目であるが?」
「まあまあ」

 火花の散るボルスとロランの間を、パーシヴァルが気楽な調子で割って入る。

「あまり警戒しないでくださいロラン卿。俺たちは単にあなたとクリス様がただならぬ関係になっているのではないかと杞憂を抱いているだけなのです」

 さらりとした台詞を聞き、ロランは眩暈を覚えた。なんと煩わしいことか。どうやらパーシヴァルも相当な悪意を持っているようで、表情と口調こそ穏やかなものの目が全く笑っていない。
 ロランはリゾットを食べるのを諦め、皿を横にずらすと、椅子に座り直して姿勢を正した。

「何がおっしゃりたい」
「抜け駆けは許しませんぞロラン卿!」

 握りしめた拳をテーブルにガンと叩き付け、ボルスはとうとう自ら堰を切った。その反動で燭台の蝋燭の火が一つ消えてしまった。隣ではパーシヴァルが、やれやれ……と額に指を当てて溜息をついているが、そちらは気にせず正面の激高する男を睨めつけたままロランは言い返す。

「いったい何の話です」

 もとより自己や他者に厳しいロランは、たとえ相手が仕事上頻繁に関わる同僚であっても毅然とした態度を取ることに抵抗がない。ロランの冷酷な語調に怯んだのか、ボルスは一瞬口を噤んだが、しらばっくれても無駄ですよと悔しげに反撃してくる。

「近頃クリス様の貴殿への態度が変わりました。いったい何なんだ、あの人なつっこいクリス様の笑顔は!」

 そのクリス様の笑顔とやらを思い出したらしく赤くなっているボルスを見て、ロランは片眉を上げる。

「はい?」
「クリス様の、あれだけ柔らかで可愛らしい笑顔を見られるようになったのはいい、そこが問題なのではない! ただそのきっかけを作ったのは貴殿ではないのかということだ!」
「私が? 何故そう思われる」
「それは」
「ロラン卿は、クリス様にただならぬ想いを抱いていらっしゃるでしょう?」

 言い返そうとしたボルスを遮り、パーシヴァルがテーブルに頬杖をついて言った。その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。
 ボルスは単純でわかりやすい反面、パーシヴァルは頭の回転が速くずるがしこいため、対処が難しくロランは苦手だった。あまり相手にしたくなかったのだが、会話の流れが変わった今、眼中にないふりをすることはできない。
 ロランはパーシヴァルに視線を移し、小さく肩をすくめた。

「そう見えますか?」
「そう見えますね。そして、あなたの気持ちをクリス様は受け入れたのでしょう」

 そんな!?と向かいで男が悲痛な声を上げたが、二人は無視した。
 ロランはパーシヴァルを眺めたまま少し黙っていたが、話題が話題であることと相手が全く目をそらさないことにうんざりしてきて、ふっと瞼を伏せた。

「……もしその仮定が事実だとします。何か問題があるのでしょうか」

 淡々と問う。ロランが応戦に出たことを悟ったパーシヴァルの目が険しく細められた。
 実際はロランからではなくクリスからのアプローチであるが、ロランがクリスと以前よりも親しくなっているのは事実だ。クリスが騎士団長に上りつめた時よりも増してゼクセンの英雄として象徴的な存在となっている今、彼女と容易に親密になることを二人はロランに牽制したいのだろう。
 咎められても仕方がないとはロランも思う。自分も彼らの立場だったら同じ事を言うはずだ。ゼクセン騎士団の威光を守るため、クリスという女の地位を決して揺るぎないものにしなければならない。高位に位置する者のスキャンダルが良い結果を生むことはまれだ。
 紋章の力により、今や半永久的に君臨することを許された神のごとき存在。他者には決して為し得ない、恍惚を覚えるほどの高尚さ。
 ロランが、そんな女性に気が遠くなるような畏敬の念を抱いていることは確かだった。果てなくゼクセンを愛する自分だからこそ、おそらく、この騎士団の、この世界の誰よりも。
 ――だが。

「クリス様がどなたかと親しくなることに、問題があるのですか?」

 それでは、クリスが人間として生きることを許されていないようではないか。
 ロランは気付いたのだ。彼女が自分に向かって絶叫を上げたそのとき。
 その姿は、まるで愛情に飢えた子どものようだった。

「そしてなぜあなた方はその相手を糾弾しようとするのです?」
「貴殿がそう言うとは思わなかったな」

 鼻で笑い、パーシヴァルが鋭い語調で口を挟んでくる。その暗く光る目はロランを威嚇していた。

「我々は、てっきりロラン卿こそがゼクセン騎士団を狂信的なまでに称えている人間だと勘違いしていました。その内に、クリス・ライトフェローへの敬仰もまた存在しているのならば、あなたは我々の言い分に同調してくれると思ったんだが」
「私が敬愛しているのは」

 ロランはじっとパーシヴァルを見つめ返し、

「人間として、そして騎士団長としての彼女です」

 きっぱり言うと、男から笑顔が消えた。いつも微笑んでいるぶん、パーシヴァルの無表情には恐ろしいものがある。

「……まるで貴殿の持論だとは思えんな。一体どうなされた、ロラン卿?」
「もし、あなた方の仮定が事実だとするならば」

 ロランは立ち上がり、新聞とリゾットの皿を持ち上げると、冷徹な視線で二人をそれぞれ一瞥した。

「クリス様が豊かになられることは、決して悪いことだとは思いません。ボルス卿も言っておられただろう、彼女の笑顔は喜ばしいことであると」
「そっ、それはそうだが」
「ですが私は同時に、これまでと同じく彼女が威厳を守り続けることも望みます。あのお方は騎士団長ゆえ、そうでなければならないからです。
 ――あの聡明な彼女に愛することと騎士であることを両立できないわけがない」

 低い声音に、座ったままの二人はロランを見上げ、唇を閉じた。
 ロランはわずかに口角を上げる。

「クリス・ライトフェローをそういった女性として成長させることのできる相手を私は望みます」

 踵を返し、皿を洗って片づけるため、誰もいない薄暗い厨房へとロランは向かった。
 背後で二人の密やかな話し声が聞こえたが、何を言っているのかは分からなかった。