ヘリアンサス   花言葉は「快活、誘惑、憧れ」





「平和ボケしそうだな」

 自室の三人がけソファに両足を伸ばし、背もたれに腕をかけているクリスが言う。丸テーブルで評議会に提出するための資料を読みつつ、紅茶を飲んでいたロランは目を上げ、彼女を見た。クリスはどこでもない一点をぼんやりと見つめ、眠たそうにしている。
 他にも何か続くのかと思って彼女が喋るのを待っていたが、その気配がないため、再び目線を手元に落とす。
 通常、ロランの今いる席とこのシチュエーションはサロメの得ているポジションであるが、彼がゼクセに出向いていて留守のときなどには、なるべく彼女の部屋を訪れるようにしていた。というのは、仕事の名目で彼女の部屋に来るでもしない限り、クリス様万歳の他の騎士たちに邪魔されて二人の時間が一切持てないからである。
 もとより六騎士の中ではクリスにもっとも関心が薄そうな人間だと思われていたロランだ。最近になって「クリス様の部屋に事務仕事のために赴く」と伝言する機会が多くなると、二人の仲を認めてくれているらしいサロメ以外の騎士たちは半端ない疑心暗鬼の目を向けてきた。初めの頃は四人(レオは半ばノリだが)のあまりの迫力――もしかしたら寝ている間に急所を刺されるかもしれないと勘ぐるほどの威圧感――に内心どぎまぎしていたが、幸いロランは感情の露呈が乏しく、適当にあしらっているうちに、こうなったら徹底的にクリス親衛隊に対してしらばっくれていようと強気に出るようになった。
 今まで真面目かつ清廉潔白に騎士を務めていたことが報われてか、ロランに対し、無闇やたらにあれこれ詮索してくる騎士はいなかった――もちろん彼らの顔には「お前が憎い」と書いてはあったが。先ほども述べたようにしれっとすることで、それ以上に襲いかかる難を逃れていた次第である。
 自分もなかなか性格の悪い人間だなと思いつつ、紅茶を飲み干し、ポットから三杯目を注ぐ。クリスを見やると、未だ曖昧な目つきで無意味に床を眺めていた。
 喋りかけることはあまりしないロランだが、沈黙しているのも勿体ない気がして口を開いてみる。

「平和ボケ、ですか」
「え」

 はっと気付いたように顔を上げ、クリスがロランを見る。意識は別の所にあったようだ。

「あ、ああ、うん。最近は平和になったしな。剣の腕が鈍ってしまいそうだ」
「世の常です。争い事が起きて、終わり、平和になり、平和もいつかは終わるでしょう」
「だからといって戦争は嫌だな……」

 額に指先をあて、かぶりを振っている。「血の臭いはこりごりだ」などとぶつぶつ言いながらクリスは立ち上がり、のろのろと歩いてロランの前に来ると、向かいの椅子に座った。
 ロランは、トレイの上にあったカップを取り、そこに紅茶を注いでやった。

「ん。ありがとう」
「いえ」
「こうやってな、ゆっくり紅茶を飲んでいるのも平和の一環なのだろうと思う」

 カップの中に砂糖を入れながら、クリスは小さく苦笑した。ロランは仕事を中断するため、手元の資料をトントンとそろえてテーブルの端に置く。

「良いことだと、私は思いますが」

 淡々と言うと、クリスはロランに視線を向けて片眉を上げた。

「とか言いながら、お前は意外に好戦的だろ。好戦的というか、なんだ……騎士として戦うことが当たり前だと思っている節があるからな」
「ご不満ですか?」

 まるで自分が戦い好きだと言われているようで腑に落ちず、眉をひそめて訊く。クリスは、いや?と肩をすくめた。

「騎士として当たり前の態度だよ。騎士は国のために戦う。この公式が、お前の頭の中では確固たる成立をしている」
「クリス様は違うので?」
「私はお前ほど義務感を抱いていないからな……」

 お前の方が模範生だ、と、今度はカップの中にミルクを注いでいる。スプーンでかき回し、取っ手を持つと、熱さを気にしているのかそっと口をつけた。
 ロランは目の前にいる女性をぼんやりと眺めた。伏せる長い銀の睫毛が顔に影を作っている。鎧を外した姿でいる彼女の髪はゆるりと後ろで束ねられ、なめらかな肌は病的なほど白い。その動作は、決して女らしいというわけではないが洗練されており、静かで、その均等の取れた身体に纏う空気は、どこか冷たく、哀しげで、孤独に感じられた。
 そう、孤独。
 彼女の周囲にある、この拭いきれない孤独は何であろうか。ロランは彼女を見つめながら思う。サロメがいてもロランがいても、他の騎士たちがいても、あまりに高潔なその存在感に畏れを抱き、皆が彼女を遠巻きにする。クリスは己を神聖視されることを強く拒んでおり、ロランも彼女が厭がることならばしたくない。しかし、仕事上の関係もあってか、未だその感覚を消し去れなかった。申し訳ないとは思うが、薄れはしても永遠に消え去ることはない感覚だろう。
 おそらく真に、普通の恋人同士のように愛し合うことはできぬ。
 確信に近い考えがロランの心を陰らせたが、同時にそう考える自身に納得もした。
 あくまで自分は、クリスに仕える人間としてこの先も傍らにいることだろう。別に恋人のような関係でなくても構わない。彼女が自分を求める時、側にいてやれればそれでいい――クリスにとっては、ロランがクリスを“騎士団長”として見るか“クリス”として見るかが重要な事柄になってくるわけだが。それはロラン自身にもよく分からない点であった。

「クリス様」

 呼びかけると、ん?とカップを口に付けたまま上目遣いになる。それは可愛らしい少女ような仕草だった。

「あなたはなぜ、私を……」

 言いかけて、とんでもないことを口にしたと気付き、ロランは不自然に唇を閉じた。一体何を訊いている、あまり不必要に彼女の領域に踏み込んではならないと思っている自分が。
 顔を伏せたせいで相手の様子は視界の端でしか分からないが、そのうち相手のカップが置かれると、んー、という小さな唸り声が聞こえてきた。

「前にも言ったけど……ロランだから、かな」

 ロランが質問しようとしていたことは分かったらしく、彼女は少し深刻そうな調子でそう言った。今の答えはかつて、クリスがロランの側にいてよいだろうかと訊いてきた時、なぜ自分なのだというロランの問いに返されたものである。
 曖昧でよく分からず、私だからですか?と聞き返す。クリスは頷きながら困ったような笑みを浮かべた。

「あのさ、なんでお前のことが好きなのかって問いは、難しくないか? どうして人間は人間を好きになるのかって問いと同じだろ。
 反対に訊くが、お前はなぜなんだ? 私のどこがいい?」

 逆に問われ、ロランは困惑した。自分もまたふさわしい言葉が用意できているわけではなく、彼女の言う通り、いざ質問されると考えても上手く返答ができない。

「確かに……難しいですね」
「だろ。たぶん一生分からん」

 そういったことは考えるだけ無駄だと言いながら、彼女は椅子から腰を上げてロランの右横に来た。以前のように何かされるのではないかとロランは身をかたくして警戒する。
 彼女は、そんな態度に軽く笑い、ロランの頭にぽんと片手を置いた。なでなで、と手のひらで往復される。表情は妙に楽しそうだ。

「……」
「なんだ、不満か」
「不満というか……一体これは何なのですか」
「撫でてる」
「それは分かります」
「可愛いな、と思っている」

 ロランは眉間に皺を寄せた。かわいい……?と唇の上で独り言のように呟き、怪訝な目でクリスを見やる。

「私のどこが可愛いというのですか」

 真面目に問い返すと、クリスはぶっと吹き出した。

「あははは……ロランは面白いな!」
「……私はからかわれているのですか?」
「やっぱり好きだなあ」

 言いながら、横から抱きついてきた。彼女の胸が頭に当たり、ロランの顔が瞬時に赤くなる。

「クリス様!」
「ん?」
「誰かが入ってきたらどうするのです」
「別にいいじゃないか、見させておけよ」
「よくありません、騎士たちから疑惑の目を向けられている私の身にもなっていただきたい!」
「んー、可愛いなあロランは」

 まったく話を聞いていない。
 おまけにロランの頭を抱き、長い耳の先に軽くキスをしてくる。
 騎士団長とあろうとも方が仕事中に何を!と声を上げたかったが、あいにくクリスの二の腕が口を塞いできたので何も喋れなかった。振りほどこうにもかなり強い力で頭を押さえ込まれており、下手に動くと首をひねりかねない。弓使いが首を痛めるのは致命傷だ。
 何度か口付けを繰り返され、こそばゆさにどうにか耐えていると、トントンとドアがノックされてロランはさっと青ざめた。少し力を入れて顔を背け、ようやく話せる程度に隙間を作る。

「クリス様! 放してください」
「ん? ちょっと待て。誰だ!」

 解放しないままクリスが返事をした。これはとんでもない事態だとロランはクリスの身体を押しのけようとするが、彼女は頭にまとわりつき、それを許さない。一体何を考えているのだとパニックになっているうちに、ドアの向こうから回答があった。

「サロメです」

 血の気が引いた。今まで生きてきた中でこれほど眩暈がした瞬間もあるまい。
 クリスが抱きついている云々よりも、今が仕事中であるということと仕事を中断している自分に驚愕し、なぜか離れようとしないクリスと格闘するが、いかんせん剣を握る彼女も男性並みに力のある女である、なかなか剥がれない。自分も弓を引くため腕力が強く、無理矢理突き放せばクリスが身体を痛めるかもしれないという不安があって本気を出せなかった。
 「入れ」とクリスが続けて返事をした瞬間、ロランはクリスの腕から出て、その反動でガタンと椅子から立ち上がった。どのようにして這い出したかは、もがいた一瞬世界が暗転したため分からない。
 入ってきたサロメは、後ろ手でドアを閉めて部屋の入り口付近に佇み、ロランとクリスを怪訝な目で交互に見やった。

「……? ロラン卿、その髪は一体どうなされた」

 言われ、ロランはぐしゃぐしゃになっていた髪を手ぐしで乱暴に整える。長い息をつき、いいえ、と眉をひそめてかぶりを振った。

「別に」
「……
 ああ」

 何か思いついたようにサロメは頷くと、クリスを見て苦笑いを浮かべる。

「クリス様。あまりロラン殿を困らせるべきではないかと……」
「何の話だ」
「しらばっくれても分かりますよ」

 二人のテーブルに近づき、議会から持ち帰ってきた資料を置くと、サロメは気の毒そうにロランを見上げ、

「クリス様は、一度懐かれると愛が深いようなので」

 にこりと笑む。
 それはいつもの穏和なサロメに変わりなかったが、どことなくその微笑に何か棘のような、威嚇のような、牽制のような、はたまた自慢のような、複雑な事情が隠されている気がして、素直に肯定できなかった。
 サロメ、お前もか、と胸中では思ったが、相手は切れ者軍師サロメである、クリスも全面的にサロメのことを信用しており、あまり疑ると自分の首を絞める気がしないでもないので口は閉じたままロランはぎこちなく頷く。
 今や己の敵は近隣諸国ではなく六騎士らなのではなかろうか。
 平和ボケしているどころではないかもしれないと、ロランは軽く絶望した。