ベロニカ   ボウルサム付属。花言葉は「あなたに私の心を捧げます、信頼、誠実」





 互いの吐息がかかり、見つめ合う二人の瞳に欲望の色が徐々に混じり始める。
 クリスは裸のままベッドの上にいるのだ。この状況で何もない方がおかしいのではないかと、間近にあるロランの顔を見つめてクリスは考えていた。心の中にある感情は不安や怯えなどではなく、どちらかというと不思議とか期待といった単語で表した方が近い気がした。
 自身の中にどれだけの願望が渦巻いていようとも、ロランは決して自分からは行動することはないだろう。それは彼の目を見れば分かった――戸惑っている、迷っている者の目だ。
 クリスは安心して欲しいという願いを込め、微笑んだ。頭をゆっくり左手で撫でてやると、彼は息を呑み、瞼を閉じた。相変わらず表情は無いが、わずかにしわの寄っている眉間で、彼が何かに耐えようとしているのが分かった。それはいっそ苦しげにも見える。
 ああ、私は女で、彼は男だ。
 その事実を頭で反芻し、クリスは感動した。二人の間にあった境界線が拭われようとしている。あれだけロランが酔狂に、まるで戒律のように色濃く引いていた二人を別つ線が。
 彼が自分に対し欲望を持っていることを知り、クリスはただただ純粋に嬉しかった。

「ロラン」

 名を呼ぶ。ロランは目を伏せたまま低い声で返事をする。
 クリスは少し身を起こして彼のこめかみと耳に口付けをする。彼はゆっくり睫毛を上げ、クリスを見る。
 その瞳に先ほどには無かった鋭い光が宿っていることに気付き、クリスは少し緊張した。それはまさしく男の目だ。
 ロランはクリスのこめかみと額に軽く口付け、靴を脱ぐと身体をベッドに乗り上げてクリスの上に四つんばいになった。彼の長い手足の牢に、クリスは完全に囚われる形となる。
 テーブルの上に置いてある燭台の火はとっくに消えてしまっているようだ。今や少し離れた壁にあるランプが弱々しく灯るだけで、部屋の中は暗闇に近かった。
 クリスは自分の首筋や鎖骨に唇を落とす男の頭をぼんやりと見つめていた。柔らかな髪。とがった耳。高い鼻。ゆっくりと這う唇の動きに心地よさを感じ、身じろぐと、ロランは顔を起こしてクリスを見た。不安そうにしている。
 今までロランの表情などほとんど分からなかったのに、最近なんとなく判別できるようになったのは成果だなと、クリスはのんきに考えながら彼に笑いかけた。

「ロラン」

 はい、と微かな声で返事がある。

「あのな、くすぐったいんだ」

 いたずらっぽく言うと、彼は困ったように微笑した。

「すみません」
「でも、気持ちいいな」

 頭を撫でてやると一瞬、猫のように目を閉じる。図体はでかいが、こういうところはかわいいなとクリスは思う。

「ロラン」
「はい」
「ここまでにしよう」

 別に乗り気でないわけではないのだが、先の紋章事件もあっていささか身体が疲れていた。ロランはクリスの両目を無表情で見つめ、そのうち、はい、と潔く身を引いた。
 身体を起こしてベッドの向こう側に降りようとするので、クリスは慌ててロランのシャツを引っ張った。驚いた顔で彼が振り返る。

「クリス様?」
「でもそばにいて欲しいんだ。わがままだが」

 身体をベッドの奥に移動させ、ここに横になるといいと言うつもりで、てしてしと自分の隣を手のひらで叩く。ロランは呆れた様子でクリスの手と顔を交互に見やった。

「クリス様……なんの拷問ですか」
「私もそう思う」

 自分だって裸の人間が隣にいたらむらむらすると溜息をつくと、彼は自分のことを言われていると感じて羞恥を抱いたのか、顔をうつむかせた。背を向け、隣に座ったまま動く気配がないため、クリスは煮えを切らしてぐいと彼のシャツを引っ張り、

「これは命令だ!」

 と、おどけた調子で言った。ロランは半眼でクリスを睨んでいたが、そのうち「ご命令とあらば」としぶしぶクリスの横に仰向けになる。
 最近は人間の冗談も分かるようになってきたじゃないかと満足げにクリスは寝たまま横向きになり、自分の裸の身体を包んでいる毛布をロランにも掛けてやった。

「寒いだろ?」
「……クリス様!」

 天蓋を見つめたまま、彼は身体を硬直させて悲鳴のような声を上げた。クリスの方に身体を向けてしまえば素肌にぶつかってしまう距離だ。
 減るものではないし、別に見たっていいのに、だって濡れた服を脱がす時に見たんだろ?と面白く思いつつ、手を伸ばしてロランの柔らかな前髪を片手で軽く撫でる。

「ロラン、長身な割に頭が小さいよな。うらやましい」
「クリス様……」

 ああ、と息を吐き、勘弁してくれと言いたげに両手で顔を覆っている。

「おやめを……」
「嫌だ。お前に甘えたい」
「先ほども申し上げましたが、この状況は私にとっては拷問です。私でなくとも男にはみな拷問でしょう」
「いいじゃないか、拷問でも」

 しれっと言ってやる。ロランは顔から手を除けてじろりと視線だけをクリスに向け、険しい顔つきになった。
 怒ったかなあ、怒るよなあ、と思いつつあまり反省はせず、彼の髪を撫でる手を引っ込める。

「ロランは面白いよな」

 言葉に、ますます眉間にしわを寄せている。クリスはくすりと笑い、ロランと並んでころんと仰向けになった。

「なんかいいな、こういうの」
「……」
「落ち着く」

 クリスの言葉を最後に、二人は沈黙した。真の紋章の暴発で気を失っていたこともあり、今が何時なのか分からないが、城内からも外からも物音ひとつしないので、まだ深夜なのだろう。世の中が平和になった近頃は、こんな時間まで徹夜して仕事をこなすことも少なくなった。
 長らく静寂が続いていたが、隣で身動きする音がし、何かと思い目を向けると、ロランが首につけていたシルクのタイを外して両手で畳んでいるところだった。

「失礼。寝たままタイをしているのは息苦しくて」
「ああ」

 普段は模範のようにきっちりとした服装をしているロランが開襟状態になった姿は、なかなか妖艶だ。なんだかクリスの方がむらむらしてしまい、彼の鎖骨辺りをよく見たくて、毛布を巻いたまま身を起こして上から覗き込んだ。
 途端、ロランがクリスからすっと目をそらす。色っぽいしなやかな首筋は目でしっかり堪能しつつ、一方であからさまな彼の態度に口を尖らせる。

「ロラン! 私を見ろ」
「嫌です。襲われたいのですか?」

 そっぽを向かれたまま不機嫌そうにぴしゃりと言われ、クリスもまたむっとしたが、襲われたいわけではないので口論では引き下がった。代わりに、彼の痩せた頬を手のひらで撫で、顔を寄せてみる。ロランは息を吐き、少しつらそうに目を閉じた。

「クリス様……もう、ご勘弁を」
「キスをしたい。駄目か?」

 正直に自分の欲望を言うと、ロランは瞼を上げて無表情でクリスを眺めた後、顔をクリスの首に寄せ、そこに軽く口付けた。
 首筋へのキスは、欲望のキスだ。
 あなたが欲しいと、そう間接的に言うロランに喉の奥で笑い、クリスは彼の額、こめかみ、頬に口付け、唇に触れた。戸惑ったようにロランは一瞬、顔をずらしたが、意を決したのか、クリスの願望のままに唇を合わせてきた。
 角度を変えてくる彼にクリスは目を閉じ、波紋のように広がっていく幸福感に心を震わせる。
 ああ。
 幸せだ。
 だんだんと互いにむさぼるような口付けに変わると、そのうちクリスの身体から毛布が剥がれ落ちた。ひんやりとした大きな手に素の背中を撫でられ、思わず声を上げる。

「ロ、ラン」

 彼は唇を離し、両手でクリスの頬を挟むと、まるで祈るかのように互いの額と額を合わせた。
 相変わらず彼の顔は能面のようだったが、もしかして泣いているのだろうかとクリスは思った。
 想う女と触れ合えたことへの歓喜なのか、それとも遥か高みに存在していたはずの完全なる女神が崩壊したことへの嘆きなのかは分からない。しかし、ロランは今、己の感情が飽和していてどうしようもなくなっている。それだけは分かる。
 感情が乏しく、心揺さぶられることがないなんて本当は嘘だ。
 だってお前はこんなにも愛に満ちているではないか。
 心の中で呟くと、まるでそれが聞こえていたかのように、ロランは額を離してクリスを見つめた。
 間近に迫る、気が遠くなりそうなほど深い色をした黄金の瞳の中に、自分が映っている。
 映る自分は、騎士としてのクリスだろうか、それとも女としてのクリスだろうか。
 果たして。