チューベローズ 花言葉は「危険な楽しみ」
「なあ、お前の部屋に行ってみてもいいか?」
「駄目です」
即答だった。
女は口をとがらせて目の前にいる長身の男を睨む。男も今回は絶対に引かないと決めているのか、同じく鋭い目つきで女を見つめ返した。
沈黙が続く。端から見れば冷戦開始といったところで、どうしてクリス様とロラン卿が……と驚愕の声と共に兵士たちに遠巻きにされることだろうが、あいにくここは他に誰もいないクリスの自室だった。ロランがクリスの部屋にいて丸テーブルの前に座っている――書類に囲まれて――ということはつまり、現在仕事中である。
文法がややねじ曲がっている壊滅的文書を生み出すことでロランが手間取るため、「クリス様は書類の整理をしてください」と大量の文書を押し渡されてからしばらく後のことだ。一通り自分のテリトリーを片づけたクリスは、ロランの座るテーブルの前で仁王立ちをしていた。
未だ決裁書類と格闘しているロランには多少の苛つきがあるのか、手に持った羽ペンの先のインクを瓶の中にトントンと落としつつ、しかし視線はクリスから外さないまま沈黙を守っていた。クリスは彼の上司だということもあり動じないから良いものの、もしこれがロランの部下であったらあまりの迫力に恐ろしくて泣き出してしまうかもしれない。もとより顔つきが冷徹なロランが睨み付けると心理的破壊力がすさまじい。
長らくの寂を破ったのは、クリスだった。
「なぜだ。お前だって私の部屋にいるじゃないか」
「それではお聞きしますが」
そんな台詞など予想の範疇だというように、ロランが、どこかほくそ笑んでいる表情ですかさず口を開いた。
「私の部屋に来る目的は、業務上必要だから、ということですね?」
震え上がらせるような低い声と射るような視線。
今回は本気だなとクリスは額から冷や汗を流したが、それは彼の冷々たる態度に怯えたからではない。単に口で負けそうな気がして悔しかっただけだ。
「そ、そうだ」
腰に両手を当て、ふんぞり返ってみせる。ロランは珍しく大きな溜息をつき、羽ペンをインク瓶の中に戻して力無くかぶりを振った。
「私の部屋に来ても執務に集中しないことは目に見えています。そもそも女性が男性宿舎に来るべきではありません。控えてください」
「おっ、お前、最近サロメみたいなことを言うようになったな。前はもっと優しかったのに!」
ロランの向かいの椅子にさっと座り、クリスはテーブルを両こぶしでドンと叩いた。クリスの頭の高さまで積み重なっている文書がぐらぐらと揺れる。
書類を大きな片手で押さえつつ、ロランは呆れた目でクリスを眺めた。
「あなたこそ、私に対して少し慣れ慣れしくなりました」
「そ、そうか? サロメに取る態度と大して変わらないが」
「それが問題なんです」
サロメ殿があれだけ羨ましがられて騎士らの標的になっているのに、どうして私まで……とぶつぶつ言いながら再びペンを取り、作成途中の書類にさらさらと文字を書いていく。まったくクリスの方を見やる気配はない。どうやら作業を再開してしまったらしい。
今日の仕事のほとんどをロランに任せてしまっているクリスに、彼を邪魔する権利はなかった。くっと小さく呻き声を漏らし、唇を噛んでロランの手元を見つめていたが、ふうと息を吐いて背もたれに体重を預けた。
「つまらん」
「つまらなくて結構」
「遊びに行きたいのに」
「来てどうするのです。本棚と机と寝具だけの殺風景な部屋です。この三語だけで間に合います」
「サロメの部屋には行った!」
クリスが声を張り上げると、ロランの手がぴくりと反応したような気がしたが、気のせいだったのか目もくれず淡々と仕事を続けていた。
「……ならば大体似たような作りです。宿舎なので」
「違う、私が行ったのはこの棟の彼の書斎だ」
「……」
「そういえばどうして私にはこの部屋しかないんだろう? サロメは書斎と宿舎の部屋を持ってるのに」
なのに誰彼かまわず私の部屋に入り浸っているではないか、と不満たらたらで呟く。
「誰よりも良い部屋を充てられているというのに……」
頭を抱えるような溜息混じりのロランの声が聞こえてきたが、クリスは無視し、テーブルのかろうじて空いているスペースに突っ伏した。頭を右腕に載せ、左手の人差し指でテーブルにぐるぐると絵を描いたりしてみせる。
「……私はただ、ロランと仲良くなりたいだけだよ」
少し待ってみたが、言葉に返事がないため、更に続ける。
「甘えさせてくれたっていいだろ……」
すると急に、ガタガタとテーブルが動いた。なんだ、地震かと驚いてとっさに両脇の書類を手で押さえて頭を上げると、目の前にいるはずのロランの姿がなかった。
ふと気配を感じたのは自分の左横だった。ハッとして見上げると、ロランは無表情で、ひどく鋭利な目つきでクリスを睨めつけていた。
初めて見る――いや、自分が知らないだけで、戦争においては、もしかしたらこの姿を敵に見せていたのかもしれないが――背筋が凍るほどの威圧感。本気で怒らせたとクリスが青ざめたとき、彼はぐいとクリスの腕を掴んで立たせ、そのまま引きずるような形で部屋にあるソファにクリスを無理矢理座らせた――というより、投げた。
ソファに仰向けに倒れ込み、思わずカッとなったクリスが「何をする!」と声を上げたと同時、ロランが上から押さえつけるように屈み込んできたのでクリスは息を止めた。片手を頭の上で固定される。
「クリス様」
低い、空気を這う声。
「ご自分が女性で、私が男であることをお忘れなきよう」
耳元で響いた言葉は、怖いというよりも、美しかった。
クリスは間近に迫ったロランの顔を瞬きもせず凝視し、また、彼もクリスの両目をじいと見つめていたが、そのうちクリスは口元をにやりと笑わせ、押さえつけられていない方の手でロランの白く細い首をぐっと掴んだ。
「そんなこと、とうに分かっているさ」
クリスの台詞に目を細めたロランの喉仏が、わずかに動いたのが手のひらで分かった。
長い沈黙が続く。窓から差し込む日の光が二人の姿を照らし、男の覆い被さる身体のせいで女の身体は影になっている。
二人は触れ合いそうなところで見つめ合い、だが決してその距離を縮めることはない。
男は女に首を絞められ、女は男に手の自由を奪われている。
女は微笑している。男は無感情な瞳で女を睨んでいる。
二人の静かな呼吸が聞こえる。女の手のひらには男の鼓動が伝わる。男の手のひらにはおそらく女の脈が伝わっている。
その速さは二人にしか分からない。
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