シンフォリカルポス 花言葉は「いつまでも献身的に、かわいい」
寝る前に寝酒を飲むのがクリスの習慣となっているのだが、その席の相棒であるサロメが今夜は不在だった。ゼクセにいる老いた親戚の体調が急に悪くなったらしく、夕方職務を終えると颯爽と馬を走らせ出て行ってしまった。サロメにとっては数少ない身内の女性で、今までも時々様子を見に行っていたのだが、ここのところ病気がちになり、周囲に面倒を見る者がいないので看病をしているらしい。
山積みの書類と日々格闘しているサロメである。私でよければ力になるがとクリスが申し出たものの、サロメは苦笑して断った。何やら気難しい老婆で、サロメを独り占めしているクリスをあまりよく思っていないらしい。
それなら仕方ないと、ブラス城の自室にあるテーブルに一人突っ伏し、ワインの入っているグラスを持ってぐるぐると回しつつ鼻歌を歌ったりしていた。少し粘ってみたが、話し相手もいないためか酒を口にしてもなかなか眠気が襲ってこない。いいかげんそうしているのも飽きてきて、シャツとセーター、厚手のスパッツという出で立ちで腰を上げ、自室の扉を開けて廊下に出た。
人の気配のない、壁にランプが灯っているだけの仄暗い空間を歩き、階段を下りる。どこまで行こうか。自然や遊歩道に恵まれたビュッデヒュッケ城ならば夜の散歩も雰囲気があってよいが、あいにくここは石と鉄のブラス城である。外出と行っても門は閉まっているし、武器や防具無しに出かけるのは不用心だ。どうしようかと悩み、一階まで降りると、とりあえず一番近くにあった戸の鍵を外して外に出た。それは中庭に続く扉だった。
中庭はそれほど広くはなく、噴水が真ん中にあり、その周囲を整然と花壇が飾っていて、ところどころに木製のベンチが設置されている。男性宿舎の庭でもあるここは、休憩時間になると兵士たちの憩いの場になっていた。喫煙可能な場所がブラス城ではこの中庭だけというのも男たちが集まる理由になっているのだろう。
噴水のやわらかな飛沫の音が聞こえる。煙草でも吸いに来た人がいるかもしれないと思ったが、他に誰もいなかった。それもそうだ、時間は深夜に近いし、訓練で疲れ果てている兵士たちは皆、今頃ベッドでぐっすりと眠っていることだろう。
話し相手でもいればよかったんだがと最も近いベンチに座ろうとして、クリスはぎくりと立ち止まった。先客らしい一人の男が座っていて、暗がりの中、こちらを見ているようだった。尖った耳が見えてハッとする。
「ロラン」
名を呼ぶと、はい、と低い小さな声が聞こえた。中庭を見回していたとき、一番手前にあったベンチが視界の外になっていたらしい。他に人が、しかもロランがいたことに驚きつつも嬉しく思いながら、クリスは彼に近づき、座る場所を空けてくれたことに甘んじて隣に腰掛けた。
「奇遇だな」
「そうですね」
感情のない返事。淡々としているのはいつものことだ。
「眠れないのか?」
「……習慣なので」
ぼそりと言われた言葉に、クリスは目を丸くしてロランを見やった。その淡白な口調と同じく、彼は無の表情で噴水の方を見つめている。
「夜ここに来ることが?」
「ええ」
「一人で?」
「ええ」
「そうか。私もな、習慣があるんだ。寝る前に、サロメと一緒に酒を少しだけ飲むんだが、今日はサロメがいなくてな」
サロメの親戚云々の話を簡単にしてやったが、相づちこそあるもののロランは微塵も表情を崩さない。話し終えて、本当にこの男は顔に出ないなあと残念さを通り越してクリスは感心してしまった。
沈黙が続く。クリスの話にもあまり興味がないようだし、もしかしてもう戻りたいのではないのかとロランが席を立つのを待っていたが、その気配はどうしてか無かった。
しばし二人無言で夜の冷え冷えした空気を感じていたが、ロランから話す様子がまったく感じられないので、耐えかねてクリスは口を開いた。
「なあ、ロラン」
「はい」
すぐに返事はある。
「私のこと、少し避けてるだろ」
この問いに、ロランは相づちを打たなかった。代わりに少し顔をそらし、考え込むような仕草をしている。
別に責めているわけではないんだがなあと、クリスはなんということはない口調で続けた。
「ちょっと寂しいんだが」
「……」
「いや、他の奴らには分からないぞ、きっと。でも、すれ違う時に目をそらされたりすると少し不安になるよ」
きっとこの前のことが原因なんだろうけれど。クリスは空を仰いだ。深い紫紺の色の中に光る星が無数にちりばめられている。ところどころ薄い雲がかかっていて、時おり月の光を遮ったりしている。
隣にいるロランは静かにしていた。だが、従順な男がすぐに言葉を返さないということは、彼が今何かしら思考している証拠なのだろうとクリスは思う。
クリスはロランの顔を一瞥したあと、噴水をぼんやりと見つめた。
「……言わない方が、よかったかな」
一緒にいて欲しいなどと、口にしない方がよかったか?
切なさを感じながらぽつりと繰り返すと、ロランは、いえ、と微かな声で否定した。
「私は……ただ。
ゆっくりと進みたいだけです」
ゆっくり? ロランの顔を見上げ問い返す。彼は目を伏せ、やはり何の感情も宿していない面持ちで続けた。
「私の時間の流れとあなたの時間の流れは、少し違うのだと思います。自分がエルフだからかもしれません、私は、おそらく本能的に、物事に関して強い衝動や焦りを覚えないのです」
「そうなのか?」
確かエルフは他種族に対し偏見の強い者も多いと聞いたのだが、と、口にすると失礼なので心の中で思うだけにしたが、ロランはそれを悟ったように更に続けた。
「エルフによる、かもしれませんが。
私は、性格的にも感情や意志が乏しいのだと思います。あまり自分の考えというものがありません。もちろんクリス様に、騎士団に忠誠を誓っていて、一生をゼクセンに捧げるつもりでいますが、言い換えれば、私は、ただそれだけなのです」
ゼクセンに身を置き命尽きるまで添い遂げると決めただけで、それ以外には何も持っていないのだと、彼は言う。話し方は相変わらず単調だが、伏せられた目が少し悲しげなのをクリスは見逃さなかった。
「それだけの男が、あなたのそばにいていいのかを考えています」
彼の言葉を聞きながら、クリスは、ロランがこれほど自分の考えを語る場面を初めて見ると思った。うつむき、じっと一点を見つめて考え込むロランの顔は、どうしてか美しいとまで感じる。その痩けた頬と鋭い目つきで冷酷な印象があり、初めの頃はクリスも取っつきにくさを覚えたほどだったが、なぜか、今は美しいと。
ロランは唇を閉じ、ゆっくりと視線をクリスに移した。暗がりの中の暗い黄金のような、深い緑のような不思議な虹彩に、思わず見入ってしまう。
「私はあなたに何も与えられないかもしれない」
言葉は、静かだったが、どこか苦しげに響いた。クリスが両目をじっと見つめ返すと、二人の間に沈黙が降りる。
彼は、たとえこの先、長く一緒にいたとしても、二人の間柄に現状以上も以下もないかもしれないと言おうとしている。自分は感情に乏しいから、心揺さぶられるほど何かを思うことがないから、この先一緒にいたとしても、クリスに対して与えられるものが何もないかもしれないと言う。
ロランという男が、感情に乏しいというのはクリスも日頃から感じていたことだった。ゼクセンを愛しているという、おそらくクリスよりも強い意志を除けば、彼は基本的に物事に対して受動だった。話は聞き役に回るし、誰かが決定したことに対して逆らうことはほとんどない。六騎士の間で一番無口なのが彼だった。だから、親しい仲間内でも、何を考えているか分からないと言われていることも多々あった。
もちろん、彼も武器を取って戦う人間だ。意志がないはずがないが、彼は表現をしないのだ。その必要性を感じないからかもしれない。
「お前が、私に、何も与えられないだって?」
だが、そんなことなどクリスは前々から承知している。老いを忘れた自分が、ロランと共にこの先も在ることを望むことに、彼の感情が乏しいだとか互いに影響し合わないだとかいうことは、さして重要ではない。
「与えるだろう、お前は」
クリスは、ふっと笑った。クリスを見つめ返すロランの瞳に、疑問の色が混じる。
「時間を。
時間を与えるだろう、私に」
ゆるやかに吹く夜風が、クリスの髪をさらさらと揺らした。
「お前が望むのなら、お前は、私にお前の時間を与えてくれるのだろう」
低く、だが穏やかにクリスは言った。ロランから視線を外し、噴水を見やる。
「人間が命の次に大切に思うものが何かを知っているか、エルフよ。
それは時間だ。寿命の長いお前にも分かるはずだろう、人間が生き急いでいる存在だと映るのなら。
私たちには時間がないのだ」
私を除いてな、とクリスは笑んだ。ロランが身じろぐ気配を感じたが振り返らなかった。
「その時間をくれと私はお前に言ったのだぞ。それが私たち人間にとってどれだけ重く深刻なことか、お前は分かっていないのかもしれないな」
「……つまり、私たちは逆転するのですね」
ロランが呟く。クリスは、そうだと頷いた。
「もしお前が私のそばにいてくれるのなら、いつか時間が足りないと思うのは、きっとお前の方だ」
長命なエルフが、本来ならば命短き存在である人間の時間に届かなくなるという矛盾。それは果たして、エルフであるロランにはどう感じられるのだろう。不思議だと感じられるのだろうか、それとも過酷だと、あるいは――
「私は私の時間をあなたに捧げて」
ロランの声は、先ほどとは変わり、静かな強さを宿していた。
「あなたは私に時間という戒めを与えるのですね。人間に対し、時間の優越を持つエルフである、私に」
一体どんな表情でそう言っているのだろうと、気になってクリスはロランを見た。
彼は、微笑していた。それは少し悲しげに見えたが、優しい笑みだった。彼がこんなふうに表情を変えるのは珍しい。
思わず言葉を失っていると、ロランは立ち上がった。彼は非常に背が高い。顔まで見上げるのが大変なので、クリスもベンチから腰を上げる。頭までの距離は少し縮まったが、それでも依然遥か上にあった。
一体どうしたのだろうと首を傾げていると、ロランは急に苦笑混じりの声を出した。
「明日、少し面倒なことになりそうです」
「え?」
「宿舎の窓から我々を見ていた者がいたようだ」
そうなのか?とクリスは中庭を囲むようにある五階建ての男性宿舎を見上げたが、ほとんどの窓が真っ暗であり、明かりがついている部屋があったとしても人が窓際に立っている様子は見られない。一体どこの窓だと尋ねたが、もう気配を消してしまったとロランは言った。
「でも、たぶん――少し、厄介な相手です」
「厄介?」
「お気になさらず。
お風邪を召してしまわれるといけません。クリス様、そろそろ戻りましょう」
促され、あ、うん、とクリスは歩き始めた。のっそりとロランがついてくる。脚のコンパスが長いせいで、彼の足音には間隔がだいぶあった。
まるで自分が急いで歩いているみたいだなと可笑しく思っていると、不意に後ろからロランが言った。
「眠れそうですか?」
「え? ああ、そうだな、そろそろな」
「……いつか……」
言いかけて言葉を止めたので、城内へと戻るドアを半開きにしたままクリスは振り返った。すぐ後ろにロランが顔を伏せて佇んでいる。
「ん?」
「いえ……」
無表情に、彼は小さくかぶりを振った。そのまま続ける気配がないので、無性に気になってクリスは問う。
「なんだ? どうした。言ってくれ」
「……」
抵抗するように彼は沈黙したが、いつまでもクリスが城の中に入ろうとしないためか、ロランの方が観念して口を開いた。
「いえ、いつか……寝酒に。
私も、ご一緒させて頂きたいと」
もちろんサロメ殿もご一緒に。申し訳なさげにぼそぼそ言うロランに、クリスは笑った。当たり前だろ、大歓迎だと言ってやると、彼は少し、ほんの少しだけだが、嬉しそうに微笑した。
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