グラジオラス   花言葉は「ありきたりでない愛、密会、用心」





「なあロラン」

 不意に、クリスに名を呼ばれた。彼女が、書類が山積みになっている机の、かろうじてあるスペースに頬杖をつき、羽ペンの先をインク瓶に無意味に浸したり出したり繰り返している最中のことだった。

「はい」

 ブラス城のクリスの自室にある、主に茶をするためのテーブルを仕事机の代わりにし、やはり膨大な量の書類に囲まれているロランは、彼女の作った破滅的な文書を校正中の手元を見たまま応える。

「なんでしょう」

 仕事中に気が散った彼女のよくある雑談の一貫であろうと予測し、ロランは下を向いたまま机上の仕事を止めなかった。

「あのさ、甘えるってどうやるのかな」

 ペンを持つ手は一瞬停止したが、すぐにまた動き始める。紙の上に走る、お世辞でも上手いとは言えない彼女の字を、果たしてこれはなんと読むのだろうと睨みつつ、少し経ってからロランは返事をした。

「……さあ」
「サロメにな、言われたんだよ。クリス様は仕事をしすぎだからもう少し周囲に甘えていいのですよ、と」

 仕事をしすぎだという言葉は寛大すぎるだろうとロランは思う。文章構成能力に乏しいのか、クリスの作成した書類はとてもではないが一次審査を通過することなどできない。赤インクで直された箇所で四隅まで埋め尽くされる有様で、結局すべて一から作り直しているのがサロメと事務補佐役のロランだった。
 サロメもクリスに任せず、自分一人でやれば手間が省けると思うのだが、よりによってゼクセン国土を揺り動かす重要文書である、クリスがまったく手を付けないために「所詮お飾り」という非難が上がるようになると困るので、せめて騎士団長にゼクセン騎士団と評議会がしている仕事の現状くらいは把握して欲しいという願いがあるようだ。自分の頭で考えて書類を自分で作れば記憶にも残るという思惑があるのだろう。周囲を評価を下げないために己の首を絞めるだけで済むならその方がよいという考え方が、実にサロメらしい。ロランはそれに巻き込まれているだけなのだが。
 あの方は仕事に関してマゾだなと胸中で呟きつつ、ロランは言った。

「サロメ殿がそうおっしゃるのならば、その通りなのでは?」

 端から聞けば無責任に響くと思われるが、クリスは気に留めていない――というより、ロランの素っ気なさに気付いていない様子で続けた。

「そうかな。でも甘えるって具体的にどういうことだ? 私は甘えてばかりなのだと思うのだが。こういう事務仕事はサロメやお前やパーシヴァルに任せっきりだし、兵士たちの訓練もレオやボルスが率先してやってくれている。私はむしろ何もしていないような気がするよ」

 戦場の銀の乙女と呼ばれ、真の紋章を手にし、グラスランドの危機を救った大物が何を言うか。

「……充分すぎるほどのご活躍だと思いますが」
「いや、何もしていない。せいぜい皆の士気を上げたり評議会に顔を出したりすることくらいしか」

 だって私はゼクセンの偶像に近いからな、と背もたれに体重を預けて不満げに嘆息している。ふてくされてしまったクリスには何を言っても突っ返されるので、ロランは相づちを打たず黙々と仕事を続けた。
 しばらくして、何も返ってこないことに苛立ちを覚えたのか、クリスが沈黙を破る。

「ロランにとって甘えるとは何だ?」

 来たか、とロランは聞こえない態度に溜息をつく。

「……考えたことがありません」
「だよなあ。普通はそうだ。でも私はロランにこそ甘えて欲しいと思うんだが」
「私は他の騎士たちに比べれば大した仕事はしておりません」
「謙遜するなよ。こうやって溜まった事務仕事も手伝ってもらって、おまけに兵士たちの訓練に付き合ってもらってるんだからな、充分すぎるくらいだ」

 そもそも六騎士に所属していること自体が働きすぎの証拠なんだから、と訳の分からないことを呟いている。別に自分たちは他の人間よりも働いたから六騎士と呼ばれるようになったわけではなく、単に他の者たちより少し秀でた部分があったから抜擢されただけだ。よりよい能力を持つ者が現れれば、その座を譲ることになるだろう。

「まあでも、なんだ、ロランも甘えたいときは甘えていいんだぞ。休みを取ったりしてな」
「ありがとうございます」
「私に甘えてくれたっていいんだ。茶を淹れたり肩をもんだりくらいはできるから」

 思いがけない可愛らしい例に、ロランはほんの少し笑ってしまう。こういった時おり垣間見える無邪気さが騎士団長の好かれる所以であろうとしみじみしていると、急にクリスが立ち上がってロランに近づいた。
 一体何事か、自分がいつまでも仕事の手を休めないのが気にくわなかったのかと思い、ペンを止めて近くに立ったクリスを見上げた。彼女は少し口元を上げ、じっとロランを見つめている。

「……?」

 なんですかと目で返すと、彼女は左手を上げ、ロランの髪を少し撫でた。
 急な出来事にロランは瞠目する。
 クリスは軽く触れる程度に何度かロランの頭を手のひらで往復し、手を引っ込めた。

「髪、柔らかいな」

 あまりの驚きにロランは言葉を返せない。弓使いの驚愕がどれほどのものかを悟ったのか、クリスはくすりといたずらっぽく笑った。

「そんなに目を丸くするお前を初めて見たよ」

 言われ、ロランは羞恥を覚えて目を伏せた。顔が熱くなる。もしかしたら紅潮しているかもしれない。
 クリスは踵を返すと自席に戻り、楽しそうな声で言った。
 
「私が先に行動しないと、お前は絶対に私に甘えないからな」

 お前が甘えてくれないと私もそうできないではないか。そうはにかみ、クリスは再び仕事を始めた。
 ロランは顔を伏せたまま何も言い返すことができなかった。ペンを置いたままの書類に赤いインクが滲んでいくことにも気付かずに。