リューカデンドロン   花言葉は「沈黙の恋、閉じた心を開いて」





 ロランはその日動揺していた。
 自分は滅多に動揺することのない人間だと思っていたが、いざ心を揺さぶられると案外引きずってしまうものだと落ち込むほどだった。自室で弓の弦を張り直す作業をしているのだが、普段、時間のある時ならば外の風を浴びるために散歩していることの多い自分が部屋にこもっているということは、きっと誰にも会いたくないと思っているのだろう。午前中の出来事を思い出すと後悔に駆られ、胸が締めつけられる。意識がぼうっと遠くへ行ってしまう。そのたび弦が緩むものだから、先ほどからやり直してばかりだった。
 ああ。
 考え始めると心に暗雲が立ちこめた。
 クリスが、朝、すれ違いざまに言ったのだ。
 「私は、ロランにそばにいて欲しいのだ」と。
 始め、騎士の忠誠の話かと思い、普段からおそばにいるつもりですがとあっさり返したら、そうではないのだよと彼女は苦笑した。
 彼女は告げた。自分は不老の身となった。だからお前にいて欲しいのだと。
 その言葉を聞き、彼女が何を訴えようとしているのかを悟った。彼女は恐れているのだ、時を経るほど周囲に置いて行かれることを。
 だが、にわかな出来事だったため、ロランは戸惑いながら返してしまった。
 すぐには決めかねます。
 それは、彼女の告白が突然であることを考えれば、もしかしたら当然の返答だったのかもしれないが、彼女は悲しげに目を伏せ、自分の横を通り過ぎていった。振り返ると、うつむく彼女の長い銀髪が足取りと共に揺れていた。
 傷つけてしまったとロランは激しく後悔した。彼女を守るために命まで捧げた身、私で良ければという答えを返せばいいものを、咄嗟の出来事でそれができなかった。敬愛する者のそばにいることくらい、ゼクセン騎士団に身を置く自分はとうの昔に決めていたというのに。
 ああ。
 溜息をつき、ロランは中途半端な弓を机に立てかけた。
 いかがしたものか。
 座っていた椅子から立ち上がり、特に目的もなく窓際へ行く。宿舎の三階にあるロランの自室から見えるのは、あまり人通りのない城の中庭だった。休憩時間になると兵士たちが各々食事などを持って集まってきてにぎやかなのだが、あいにく今は夕方で、荷物を運んでいる者くらいしか見あたらない。
 再び溜息をつく。
 真の紋章のために不老となった彼女が、寿命の長いエルフである自分を求めるのも無理はない。
 彼女は見なければならないのだ、知る人々が先逝く場面を。その想像を絶する残酷な未来があるのは、ロランもまた同じだった。戦や事故、病で死ぬことがない限りは、自分もまた同僚たちが老いて死んでいくのを見届けなければならない。ゼクセンに来てから覚悟は決めていたが、まだ六騎士は現役であるし、その時期が訪れていないので、実際どうなるかは分からない。悲しみで心を崩壊させてしまう時が来るかもしれない。
 クリスは恐れている。愛していた者たちが消えゆく希望のない未来を。その痛みを分かってやれるのは、彼女の周りにいる者では一番自分が近しいのだろう。もし彼女が自分を求めているのだとしたら、命が尽きるまで傍らに立ち続けることなどすでに決まっているのだが、ロランにはひとつの懸念があった。
 彼女がロランを意識した理由は、不老になったからなのではなかろうか、と。

「……いや。これは私自身の問題だな」

 考えて、ロランは自嘲した。
 彼女の「そばにいたい」という気持ちが、長寿である自分を必然的に選ぶことから発生しているのだとすれば、彼女は自分と一緒にいて幸せにはなれないかもしれない。いや、自分のことはどうでもいい、クリスに与えられた選択肢が狭すぎることが問題なのだ。もし自分以外に長寿の者がいれば、彼女はロランではなくその者を選んだかもしれない。たとえば先の戦で協力し合った、紋章の継承者たちなどもいるのだから。
 なぜ私なのだとロランは葛藤した。自分を選んでくれることはもちろん嬉しい。だがそれが狭い選択肢ゆえの妥協だとしたら、クリスも自分もいずれ苦しむことになる。彼女が長い苦痛に苛まれ続けることだけは避けなければならない。
 一体どうしたらよいのだと頭を抱えていると、不意に、外から自分の名を呼ぶ声がした。窓から声の方を見やると、それは今まさしくロランの心を占めている女性だった。こちらを見上げ、手をぶんぶんと振っている。
 彼女の姿を視界に認めたロランの中に生まれたものは、落胆だった。
 返答によっては、また彼女を傷つけるかもしれない。もう少し選択肢を広げてから考えましょう。その言葉が最善だろうが、口にしたらおそらく彼女はまた朝のように傷ついた顔をするのかもしれない。

「ロラン! そっちに行っていいか」

 叫ばれ、男性宿舎に来るなどとんでもないと、ロランが中庭に降りていった。





「すまないな」

 中庭にあるベンチに二人で腰掛けると、早速クリスが言った。ここはひらけているし目立つのではないかと思ったが、城内は城内で同僚に遭遇する率が高い。幸い今は夕食の時間帯なので、中庭に来る者もそれほど多くはないかもしれないと自分に言い聞かせた。

「朝の話なんだが、もし負担と思うならあまり気にしないでくれ」

 苦笑しながら言われ、ロランは複雑な気持ちになる。訂正に来たのだろうか、彼女は。

「……負担などとは思っておりません」
「でも悩むだろ? 悪かった。私のわがままなんだ。急すぎたし、ロランの反応は当然だ」

 気を遣うように次々と言う彼女に、ロランの心は陰る。朝から散々悩んでいたことが零に戻った腹立たしさもあったが、それよりも、彼女にとってそれほど容易に取り消せることなのかと考えると、悔しさのようなものが湧き起こる。
 自分はあまり口が達者ではない。下手すると冷徹にも取られるという定評があるのだ。ロランは慎重になった。

「なぜ私なのですか、と、お訊きしてもよろしいですか」

 静かに、だが冷たくならないよう配慮して言うと、クリスは少し口を閉じた後、そうだな、と前方にある噴水を見て呟いた。

「ロランだから、かな」
「私だから、ですか」

 よく分からず、聞き返す。彼女は、うん、と喉の奥で頷いた。

「きっとロランは、自分が一番近くにいるからなのか、とか、一緒にいた時間の長い騎士だからなのか、とか……そうやって葛藤するかなと思って、今まで言えなかったんだが」

 図星なことを言われ、ロランは戸惑う。彼女がそこまで気の回る人間だとは、正直なところ思っていなかった。

「……」
「それは否定できない。私も、どうしてロランなのかな、と思うことがある。たぶん今挙げた理由も一部を占めているだろう。
 でも、それは結局、“縁”というやつなんだろうと私は思う。たまたま騎士団に私がいて、お前がいた。それは偶然だが、必然なんだ。父から紋章を受け継いだのが私であったように、不老となった私のそばに、たまたまエルフであるお前がいることも必然だ」

 考えてもみろ、騎士にエルフがいること自体、類い希なことなんだからと言われ、それもそうだとロランは思う。

「……では、その必然さゆえに、あなたは私を側におくということですか」

 ロランが問うと、クリスは黙った。夕陽に照らされる横顔は、少し寂しげに笑んでいる。

「……まるで“もの”みたいに言うんだな」

 低い声で彼女は唸った。

「お前にも感情があるだろう、ロラン?」
「私は」

 あなたの決定に従うだけだと、いつもの台詞を言いかけて、止めた。またクリスを傷つけてしまう。それに、この言葉は卑怯だ。相手に選択を任せることで、自分が責任を負わないようにしている。意志が乏しい人間なのだと改めて思い知らされる。
 果たして、自分に言えることは何であろう。

「私は……」

 自分は一体、クリスに、この強いが儚い女性に、自らの意志として、何を望んでいるのだろう。

「……私、には、分かり、ません」

 混乱した思考の中で、出てきたのは、たどたどしい言葉だった。

「本当に私でいいのか……私には、分かりません。
 たまたま、偶然に、だが必然に、私があなたのそばにいるエルフで、他に選択肢が無いのだとしたら、それはクリス様にとって不幸なことではないのですか」

 本心を告げる。クリスは驚いたように振り返り、不幸だと、とあからさまに眉を寄せた。

「そんなこと思うはずないだろ」
「……ですが、他にもよい選択肢が」
「断るならもう少し穏便に断ってくれ」

 傷つくんだ、と、クリスは苦しげに顔を伏せた。
 また彼女の心を乱してしまった。どうして自分はこう思いやりのある言葉に欠けているのだろう。自責の念に駆られる。
 小さく唇が震え、喋ろうにも口が動いてくれない。うなだれる彼女は痛々しい。もしかしたら今の言葉で自分の望みは完全に絶たれたかもしれない――そう考えて、ロランはふと気が付いた。
 自分の、望み。

「……」

 そうだ、自分の望みは。

「クリス様。
 私もまた、あなたのそばにいることを望んでいます」

 ロランは強く言った。だが、今の言葉では、他の六騎士たちと代わり映えせず彼女に何も伝わらない気がして、後を続ける。

「私は、あなたと同じように恐いのです」

 クリスは顔を上げた。振り返り、ロランを丸い目で見やる。

「恐い?」
「おそらく、あなたの抱く気持ちと同じです。親しいものたちを見送らねばならないことは、きっと恐ろしいことなのだと私は未来を懸念している」

 言葉に、クリスの瞳が揺らぐ。

「あなたと同じです。時が過ぎるのが恐い」

 クリスの唇が強く結ばれる。

「その恐怖と絶望をあなたと共に感じ、慰め合うことが罪でないというならば、私はあなたのそばにいたいと思っています」

 クリスは咄嗟にロランの片腕を両手で掴み、顔を伏せた。ロランからすればとても小さな肩が、小刻みに震えている。
 さらりと髪が落ちた隙間から見えるうなじは白く、細い。本当にこの華奢な女性が鬼神のごとく剣を振るうのかと疑ってしまうほどに。
 彼女は神聖視されているが、本来はこのように人間らしい女性なのだろう。自分もまたクリスを崇拝しており、彼女の人間像についてはあまり深く考えたことはなかったが、もし、今後、一人の女性として、愛しい者たちの死を嘆き悲しむ人間として、彼女のあまたの痛みに遭遇するのだとしたら、自分はそれを見届けたいと思った。
 いつか、彼女より先に死に逝くそのときまで。

「……その言葉が、欲しかったんだ」

 小さな、本当にか細い声で、彼女は呟いた。
 同じ恐怖を、同じだけ味わい、慰め合い、前に進んでいく。そうすることは、互いの確固たる信頼関係がなければ成り立たない。
 縁。偶然は必然であり、クリスがロランを求め、ロランがクリスを求めたことがあらかじめ定められていたのだとしたら、今この時のために二人が存在していたのだとしたら、その運命を疑ってはならない。
 ロランは彼女の姿を横から見下ろして、おそるおそる小さな頭を撫でた。
 それに反応するように、彼女はぎゅうと強い力でロランにしがみつく。
 彼女の白い手の甲には、紋様があった。忌まわしいが、二人の繋がりを生み出した、無感情な輪の紋様が。