イブニングスター   花言葉は「安らぎ、すべてよし、許す」





 彼が彼女に話しかけられたのは、たまたまだった。
 たまたま、その日、ロランは城の人間と食堂で夜遅くまで飲んでいた。彼の周りに集まる男たちは同系統の大人しげな者が多く、ワインを開けてしっとりと飲みながら何気ないことをぽつりぽつりと喋ることが好きな連中だった。熱血漢と大食漢のいる六騎士と飲み明かすとそうはいかないので、個人的に気の合う者たちを集めて飲むことが二、三週間に一度といったペースであるのだが、それが今日だったというわけだ。
 飲み会を解散し、城の宿舎に戻ろうと一人で薄暗い廊下を歩いていたとき、思いも寄らない人物に話しかけられた。

「ロラン、ちょっといいか」

 深夜だからかあまり音を立てない足取りで駆け寄ってきたのはクリスだった。なぜこんな夜中に誰もいない廊下を歩き回っているのだと怪訝に思ったが、顔には出さず、立ち止まったクリスを見下ろす。石造りの城内はだいぶ冷えるのに、彼女はブラウスとズボンという軽装で、ロランは心配になる。

「クリス様。いかがなされた」
「お前も飲んでいたのか? 私もさっきまで飲んでいたのだが抜け出してきた」

 少し酔いが回っているのか、燭台の炎に浮かび上がる彼女の頬が朱を帯びている。
 やはり寒そうに両腕を組み、身を縮めている彼女に、ロランは先ほど食堂で使っていた青い膝掛けをかけてやった。が、自分の方が遥かに背が高いため、うまく広げられずクリスの頭に被せるような形になってしまった。慌ててロランは謝る。

「すみません」
「いや、ありがとう」

 乱れた髪を――そういえば彼女は長い銀髪を下ろしていた――手ぐしで直しつつ、クリスは微笑んだ。肩に羽織り直して、エルフサイズだから丈が長いな、などと呟いている。確かに床に着きそうで、汚れないようにと裾をたくし上げている。
 どうしてクリスがこんなところで自分を呼び止めたのか理解できず、ロランは気を取り直してもう一度尋ねた。

「何かご用ですか?」

 クリスは顔を上げ、あ、うん、と曖昧な返事をした。何かあったのかという意味でロランが首を傾げると、クリスは、口元に膝掛けの一部を当てて、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
 そんな態度を取られる理由が分からず、ロランは片眉を上げる。

「クリス様?」
「あのな……抜け出してきたっていうのは、面倒だったからなんだ」

 ようやく聞き取れるような小さな声で、彼女はよく分からないことをもそもそと言った。聞き取りづらいため、身を屈めて耳を寄せる。すると、クリスはロランを上目遣いに見つめ、

「なあ。どう思ってる?というのは、どういうことなんだ?」

 問うてくる。
 ロランは停止した。質問の意味が分からない。

「は?」

 聞き返すと、クリスは、うーんと唸り、言葉を探すように目をうろうろさせ、

「いや……サロメがいなくてな。どう思ってる?と訊かれたんだ、パーシヴァルに、さっき……」

 再び、ぼそぼそと言った。
 普段は凛然とした口調で話す人間が、ここまで覚束ない口調になっていると不安になってしまう。我が騎士団長はどうなさったのだと眉間に皺を寄せてクリスを見るが、ロランの視線にはまったく気付いていない様子だ。
 彼女は、半ば独り言のように後を続けた。

「それって、あれだろ。男とか女とかのあれだろ?」

 クリスの口から漏れる単語を参考にし、話のつじつまが合うように頭で組み立てていく。長らく仕えているロランには、彼女の言わんとしていることが何かを容易に想像できた。
 クリスは、先ほどまでパーシヴァル(あるいは彼を含む複数)と飲んでいて、おそらく彼に「自分のことをどう思っているか」と尋ねられ、それはすなわち男や女が異性のことをどう思うかという色恋沙汰の話なのだろうと面倒になり、抜け出してきた。しかし、実のところそう断言する自信の無いクリスは、「どう思っているか」という問いは果たして本当に男女の色恋沙汰に繋がっているのかとサロメに問いたかったが、サロメが見あたらないので、似た系統の自分に話しかけた――つまりそういうことだろう。我ながら素晴らしい(慣習に基づく)推理だと感心する。
 とりあえずサロメの代わりである自分に問いの答えを求めたいらしい。屈めていた腰を戻し、答えてやる。

「現場にいた人間ではないので正確な判断はしかねますが、おそらくそういうことなのでは」

 こういったことで無闇に責任を取りたくないため、ざっくりした返答を選ぶ。すると、クリスは目を見開き、やっぱりな、と諦めたように溜息をついた。

「面倒事だ。私はそういったことは苦手でな、逃げて正解だった」
「パーシヴァル殿の言うことですから、慣用句のようなものなのでしょう。あまり気になさらない方がよろしいのでは」

 たぶん今言ったことが一番の正解だ。

「ロランは、どう思っているかと問われたら、なんて返す?」

 急に無邪気に問われ、ロランは戸惑った。酔いの熱のせいで潤んだ両目が自分を見上げてきて、思わず目線をそらしたくなったが、耐える。

「パーシヴァル殿にですか?」
「ああ。……え? いや、なんかちょっと違うな。それは変だ。たとえば私にだな」

 もしクリスに「私のことをどう思っている?」と訊かれたら。
 そう問われているのだと気付き、ロランは閉口した。
 今日のクリスはどうしたというのだ。酔いが回るにしてもたちが悪い。前々から分かってはいたが、彼女は天然なのだ。
 そう、たとえば私にだ、と繰り返し呟いているクリスを眺め、ロランは小さく唸った。お前はサロメの代わりだという言葉を突きつけたあげくの問い。どう思うも何もないだろう。

「べ……」

 別にどうも、と答えようとして、ロランは言葉を止めた。もともと物事に関心の薄い自分ではあるが、上司である彼女にそういった返答をするのは失礼にあたる。
 頭の中に考えを巡らせ、悩んだ末、

「…………可愛らしいのでは…………」

 口にして後悔した。何パーシヴァルじみたことを言っているのだ。
 だが可愛いと思うのは本心で、たとえば彼女が身長差のために自分を見上げてくるときなどは、小動物を見ているようで心が和む。同じ人間からすれば彼女は背が高くすらりとした印象があるのだろうが、自分にとってゼクセンに住むほとんどの人間は小人なのである。
 しかし一方のクリスは、可愛いだと?と明らかに訝しげな表情をしていた。

「私がか? 大して可愛くはないぞ」

 自分で問うたくせにこの言い様である。彼女が自分を過小評価する傾向にあることは知っているが、ロランの放った言葉まで否定することはないだろう。

「……思っていることを言ったまでですが」
「おいおい……それってつまり、お前にとって私は小動物みたいだとか、そういうことだろ」

 ずばり言い当てられ、ロランはひるんだが、ここでサロメだったら何を言い返すかを考えて口を開く。

「いえ、女性として」

 クリスはロランを見つめ、口を噤んだ。
 ロランは己の言葉を頭の中で反芻して、自分らしくない言い分に葛藤を覚えたが、別に嘘を言っているわけではないので訂正はしなかった。多くの人に頼られ、慕われ、時に女らしさを捨てて戦場を駆けめぐる女性への敬愛、そして時にはこのように無防備な姿で無邪気に話す女性への慈しみがあるのは事実である。
 クリスは、がっかりしたように肩を落とし、小さな声で言った。

「……そうか。ありがとう……よく分からんが……ありがとう」

 彼女の脳内で何が起きているのかロランにはさっぱり判断しかねるが、とにかく自分の返答は彼女の腑に落ちなかったらしい。クリスは踵を返すと、とぼとぼ歩き、自室へと帰るために階段の方へと向かった。
 ロランは彼女の後ろ姿を見送りながら、困惑していた。彼女の酔いが醒めたら今回の会話も忘れしまうかもしれないが、覚えていたらいたでサロメに告げ口(という自覚はクリスにはないだろうが)されそうで、下手に城内の噂になってしまうと困る。極力面倒事は避けたいのだ。
 だからといって帰ろうとするクリスを呼び止めることもできず、立ちつくしていると、急に彼女が振り返って足早に戻ってきた。

「ロラン!」

 妙な剣幕なので、驚いてなんですかと返事をする。彼女は肩から被っていた膝掛けを外し、ぐいとロランに押しつけた。

「ありがとう。暖かかった」

 腹の辺りでもつれている膝掛けを手で寄せながら、これを返しに来ただけかとロランは心の中で溜息をつく。

「いいえ……」
「私は、ロランのこういうところが好きだよ」

 普段はあまり見せることのない、あどけない笑顔でクリスは言った。ロランは瞠目したが、ハッと背筋を伸ばして「そうか、つまりこういうことなんだな!」と、ようやく“相手のことをどう思っているか”という問いの意味するところを悟った様子のクリスを見て、思わず顔をほころばせた。彼女を可愛らしいと思うのは確かだった。